聖☆おにいさん Tシャツ元ネタ(2巻)
聖おにいさん第2巻のTシャツ文字元ネタ解説集。
表紙・その9
- ブッダ「天上天下」
- フルサイズで言うと「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」。ブッダが生まれたとき、一つの手は天を指し、一つの手は地を指し、七歩進んで、四方をかえりみて、こう言ったという。
- 山折哲雄の『仏教用語の基礎知識』では「釈迦は誕生してすぐに立ち上がり、「天上天下唯我独尊(天にも地にも我は最尊なるもの)」と告げたという。釈迦は最高の敬いと祈りをささげられる対象であったから、その生誕は天界の花々と甘露を持って神々に讃えられたといい、釈迦自身も「天上天下唯我独尊」と告げたと伝承される」と書かれている。「全世界で私が最も尊い」という堂々たる宣言である。
- この言葉について、「どれ一つとして尊くない命はない」と解釈するのは、日本仏教界の一部に広まっている誤り。
- イエス「ヨシュア」
- いえっさは自分の名前のTシャツが好きだな。
その10
- ブッダ「ラーフラ」
- ラーフラはブッダが王子だったころにもうけた一人息子。漢訳では「羅睺羅」。出家を決心していたシッダールタ王子にとって、息子というものは妨げとなるものであり、「我が破らねばならぬ障碍(ラーフラ)ができた」と言ったことから名付けられたともいわれる。
- 後に釈迦十大弟子の一人となり、「密行第一」「学習第一」と称えられた。
- イエス「善いサマリア人」
- サマリア人はイスラエル人とアッシリア人移民との間の混血。イスラエル人からは異教徒とみなされていた。
- 新約聖書では、イエスが語ったたとえ話に「善きサマリア人」の話がある。聖職者だが冷淡な人より、軽蔑される人だが愛に満ちた人こそが「隣人」であるという話は、「バラモン」の項目ですでに引用したブッダの言葉「生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる」とも相通じるものがある。
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(新共同訳「ルカによる福音書」10:25~37)
その11
- ブッダ「ぼんてん」
- 「梵天」。サンスクリット語でブラフマー。インドの三最高神の一人で、世界の創造を担当している。
- 仏教では、ブッダが成道したときに、その教えは人々に理解できないのではないかと悩むブッダに対して、教えを広めるよう求めた。これを「梵天勧請(ぼんてんかんじょう)」という。そのため、梵天に要請されるとブッダが断り切れないという描写が出てくるわけである。
- 他の神々の多くは欲界の中の六欲天に属するが、梵天はその上、色界の初禅天にいる。したがって、他の神(特に帝釈天)と並び称するのは失礼なのである。
- ブッダ「業」
- 「ごう」と読む。庭で3時間座禅したときのTシャツ。
- 業はカルマ(カルマン)。サンスクリット語で「行為」の意味である。「善悪の業は因果の道理によって後に必ずその結果を生む」(広辞苑)という教え。ジェームズ・アレンの『原因と結果の法則』とはカルマのことを指している。
- ブッダ「白カラシの種」
- 『ダンマパダ』の注釈書『ダンマパダ・アッタカター』(ブッダゴーサ著)に書かれている「キサーゴータミーの物語」。
- サーヴァッティーの町に一人の長者がいた。その40億の財産が突然炭になってしまう。ところが、キサーゴータミーという娘がやってきて手に取ると、炭は黄金に戻った。そこで長者は息子とキサーゴータミーを結婚させる。そして子供が生まれるが、両足で歩くようになったころ、死んでしまった。キサーゴータミーはそれまで死というものを知らなかったので、「わたしの子供の薬を知っている人はいませんか」と家から家へと尋ねて歩いていた。
- そうしてキサーゴータミーはブッダに引き合わされた。ブッダは薬として「息子でも娘でも、誰もいまだ死んだ者のいない家から、ひとつかみの白カラシの種を手に入れなさい」と教える。キサーゴータミーは家々を訪ねるが、もちろん死者の出たことのない家などない。キサーゴータミーは、自分の子供だけが死んだと考えていたが、生きている人よりもかつて死んだ人の方が多いのだということを知り、子供に対する愛執の心は弱まった。そして、ブッダはキサーゴータミーに教えを説き、キサーゴータミーはさとりに向かう流れに入った。その後、キサーゴータミーは出家したのである。(高松大学紀要第34号「キサーゴータミー説話の系譜」赤松考章)
- なお、白カラシの種は非常に小さいもののたとえとしても使われる。
- イエス「アブラハム100歳」
- アブラハムはイスラエル人の祖。もともとアブラムという名前だった。
- アブラムと妻サライの間には子供がなく、侍女のハガルにイシュマエルという子供がいた(これがアラブ人の祖先とされる)。ところが、神はアブラムとサライに改名させ、アブラハムとサラと名乗るように命じ、さらに年老いた二人に子供が生まれると告げる。アブラハムは100歳にして子供をもうけた。その息子はイサクと名付けられた。
その12
- ブッダ「竜王ムチリンダ」
- 成道後のブッダがさらに樹の下で禅定を続けている間、風雨がひどくなった。そこへ龍王(ナーガラージャ)ムチリンダが現われ、体でブッダを七重に取り巻き、七つの頭でブッダの頭上に大きな傘を作ったという。漢訳で「母止隣陀龍王」。
- イエス「ベロニカ」
- ラテン語名は聖ヴェロニカ、マケドニアの名前としてはベレニケ。聖書ではなく後世の『殉教者行伝(聖人伝集)』に登場する女性である。
- ヴェロニカは、ゴルゴタの丘へ十字架を背負っていくイエスに、額を拭けるようにヴェールを差し出した。イエスはその申し出を受け、ヴェールを使ってから返すと、そこにはイエスの顔が浮かび上がる奇跡が起こった、と伝えられる。
- それにしても、こんなTシャツを着てるからあんなことになるんだ……。
その13
- ブッダ「カンタカ」
- 出家するブッダを乗せた白い愛馬の名前。漢訳では「健陟」。
- ブッダは、カンタカに乗って、御者チャンダカ(チャンナ)とともにカピラヴァストゥ(カピラヴァットゥ)の宮殿から出て行った。ブッダはアーマー河で剃髪し、出家するが、チャンダカにカンタカを引いて帰らせたのだった。
- イエス「サロメ」
- ユダヤ王ヘロデ・アンティパスの王妃ヘロデヤと、先夫ヘロデ・ピリポとの間の娘。ヘロデ王とヘロデ・ピリポは兄弟である。
- 王の宴席で舞を舞い、その褒美として、王とヘロデヤの結婚に反対した洗礼者ヨハネの首を所望して、これを得た。これを聞いた後に、イエスはパン五つと魚二匹の奇跡を起こす。ただし、聖書に「サロメ」という名前は書かれていない。
- この物語については、オスカー・ワイルドの戯曲などがある。サロメといえば女性名としては普通の名前で、イエスの弟子にもサロメがいるが、有名なのはこちらである。
そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、家来たちにこう言った。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。(新共同訳「マタイによる福音書」14:1~12)
その14
- ブッダ「出家しました」
- 四門出遊などの経験を経て、29歳のときに王宮を抜け出て出家を果たしたと伝えられる。これは12月8日夜半だったともいう。
- イエス「ばべる」
- バベルの塔。言葉がバラバラにされたところ。
世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。(新共同訳「創世記」11:1~9)
その15
- イエス「知らない×3」
- イエスが捕らえられたとき、ペトロは三度、イエスを「そんな人は知らない」と言った。このことはイエスによって前もって予告されていたことだった。
一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。(新共同訳「マタイによる福音書」26:30~35)
ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(新共同訳「マタイによる福音書」26:69~75)
- ブッダ「サイのツノ」
- 『スッタニパータ』に「犀の角」という章がある。「犀の角のようにただ独り歩め」というのは有名な繰り返しフレーズ。
あらゆるいきものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。いわんや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。
交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
朋友、親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
子や妻に対する愛着は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍(たけのこ)が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。
林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
仲間の中におれば、休むにも、立つにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
仲間の中におれば、遊戯と歓楽とがある。また子らに対する愛情は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角ようにただ独り歩め。
四方のどこにでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々の苦難に堪えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。
出家者でありながらなお不満の念を抱いている人々がいる。また家に住まう在家者でも同様である。だから他人の子女にかかわること少なく、犀の角のようにただ独り歩め。
葉の落ちたコーヴィラーラ樹のように、在家の者のしるしを棄て去って、在家の束縛を断ち切って、健(たけ)き人はただ独り歩め。
もしも汝が〈賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者〉を得たならば、あらゆる危難に打ち勝ち、こころ喜び、気を落ち着かせてかれとともに歩め。
しかしもしも汝が〈賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者〉を得ないならば、譬えば王が制服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。
我らは実に朋友を得る幸せを誉め称える。自分よりも勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近付くべきである。このような朋友を得る事が出来なければ、罪過のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。
金の細工人がみごとに仕上げた二つの輝く黄金の腕輪を、一つ腕にはめれば、ぶつかり合う。それを見て、犀の角のようにただ独り歩め。
このように二人でいるならば、われに饒舌といさかいとが起こるであろう。未来にこの恐れがあることを察して、犀の角のようにただ独り歩め。
実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで、心を攪乱する。欲望の対象にはこの患いのあることを察して、犀の角のようにただ独り歩め。
これはわたくしにとって災害であり、腫れ物であり、禍であり、病であり、矢であり、恐怖である。諸々の欲望の対象にはこの恐ろしさのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。
寒さと暑さと、飢えと渇えと、風と太陽のの熱と、虻と蛇と……これらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め。
肩がしっかりと発育し蓮華のようにみごとな巨大な象は、その群れを離れて、欲するがままに森の中を遊歩する。そのように、犀の角のようにただ独り歩め。
集会を楽しむ人には、暫時の解脱に至るべきことわりもない。太陽の末裔(ブッダ)のことばをこころがけて、犀の角のようにただ独り歩め。
相争う哲学的見解を超え、(悟りに至る)決定に達し、道を得ている人は、「我は智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない。」と知って、犀の角のようにただ独り歩め。
貪ることなく、詐ることなく、渇望することなく、(見せかけで)覆うことなく、濁りと迷妄とを除き去り、全世界において妄執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め。
義ならざるものを見て邪曲にとらわれている悪い朋友を避けよ。貪りに耽り怠っている人に、みずから親しむな。犀の角のようにただ独り歩め。
学識ゆたかで真理をわきまえ、高邁、明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。
世の中の遊戯や、娯楽や快楽に、満足を感ずることなく、心ひかれることなく、身の装飾を離れて、真実を語り、犀の角のようにただ独り歩め。
妻子も、父母も、財宝も、穀物も、親族やほかあらゆる欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。
「これは執着である。ここに楽しみは少なく、快い味わいも少なくて、苦しみが多い。これは魚を釣る釣り針である」と知って、賢者は、犀の角のようにただ独り歩め。
水の中の魚が網を破るように、また火がすでに焼いたところに戻ってこないように、諸々の(煩悩)結び目を破り去って、犀の角のようにただ独り歩め。
俯して見、とめどなくうろつくことなく、諸々の感官を防いで守り、こころを護り(慎み)、(煩悩の)流れ出ることなく、(煩悩の火に)焼かれることもなく、犀の角のようにただ独り歩め。
葉の落ちたパーリチャッタ樹のように、在家者の諸々のしるしを除き去って、出家して袈裟の衣をまとい、犀の角のようにただ独り歩め。
諸々の味を貪ることなく、えり好みすることなく、他人を養うことなく、戸ごとに食を乞い、家々に心をつなぐことなく、犀の角のようにただ独り歩め。
こころの五つの覆いを断ち切って、全て付随して起る悪しき悩み(隋煩悩)を除き去り、なにものかにたよることなく、愛念の過ちを断ち切って、犀の角のようにただ独り歩め。
以前に経験した楽しみと苦しみとを擲ち、また快さと憂いとを擲って、清らかな平静と安らいとを得て、犀の角のようにただ独り歩め。
最高の目的を達成するために努力策励し、こころが怯むことなく、行いに怠ることなく、堅固な活動をなし、体力と智力とを具え、犀の角のようにただ独り歩め。
独座と禅定を捨てることなく、諸々のことがらについて常に理法に従って行い、諸々の生存には憂いのあることを確かに知って、犀の角のようにただ独り歩め。
妄執の消滅を求めて、怠らず、明敏であって、学ぶこと深く、こころをとどめ、理法を明らかに知り、自制し、努力して、犀の角のようにただ独り歩め。
音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め。
歯牙強く獣どもの王である獅子が他の獣にうち勝ち制圧してふるまうように、辺地の坐臥に親しめ。犀の角のようにただ独り歩め。
慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間にすべて背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。
貪欲と嫌悪と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失うのを恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。
今の人々は自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益を、めざさない友は得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。 (中村元 訳『ブッダのことば――スッタニパータ』岩波文庫より)