うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい

提供: 閾ペディアことのは
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「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」(「うそはうそであると見抜ける人でないと難しい」)とは、2000年に発生した西鉄バスジャック事件(ネオむぎ茶事件)において、テレビ朝日「ニュースステーション」の取材の中で2ちゃんねる管理人ひろゆき(西村博之)が発言した言葉である。

これは、匿名掲示板の情報は虚実入り乱れているためにリテラシーが要求されるという意味ではあるが、逆に「2ちゃんねらーは、嘘を嘘と見抜ける(それ以外の情弱は真実を知らされず、騙されている)」と考える思い上がりを生む一因にもなった。

うそはうそであると見抜ける人でないと.jpg

初出

2ちゃんねるからついに人殺しが出た事件として記憶される2000年5月3日の「西鉄バスジャック事件」において、犯人の17歳少年は事件直前、「ネオむぎ茶」というハンドルで2ちゃんねるに「佐賀県佐賀市17歳・・・。」というスレッドを立て、「ヒヒヒヒヒ」とのみ投稿していた。これについて取材したテレビ朝日「ニュースステーション」の中で、2ちゃんねる管理人西村博之として登場、以下のような内容で放送された。

(テロップ)Q.この掲示板はどういうもの?
西村「誰でも自分の好きな話題のコーナーを作って、それに対して世界中の人がコメントを載せられるようになっている」
しかし、匿名で書き込みができるため、同じ名前で投稿していても同一人物であるとは限りません。
西村「(この掲示板は)匿名っていうのが前提になりますので、まあ、うそもありますし、ひどいことも書かれますし。そういうのを、まあ、うそはうそであるとか見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しいものがあるでしょうね」

このときのテロップどおりの表現として、画面テロップどおりの「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」という言葉がテンプレート化した。

言葉の意味

本来の趣旨としては「匿名掲示板では情報の真偽などについて担保することができないので、読む人がリテラシーを働かせなければならない。掲示板に書かれたことをそのまま鵜呑みにするような人が匿名掲示板から情報を得ようとしても無理である」という意味であると推察される。単純にこの言葉の範囲で解釈するならば、リテラシーの必要性を訴えた言葉として受け取ることが可能である。

流布

2ちゃんねる等においては、この言葉は格言のように扱われることとなった。また、「うそはうそであると見抜ける人でないと(○○○を使うのは)難しい」という形で、○○○の部分を他のサービスなどに置き換えてパロディ的に使用する例も見られる。

弊害

この言葉の弊害として、「2ちゃんねるを使いこなしている自分たちは、うそはうそであると見抜ける情報強者である」という勘違いを生むことになったことが挙げられる。

つまり、掲示板の投稿内容について充分なリテラシーを働かせることなく(つまり、うそをうそと見抜く能力を発揮せず)掲示板の投稿を思い込みのみで真実だ、嘘だと言っている人間が、「自分たちは、うそはうそであると見抜ける」と考え、結局は「自分が正しいと思った投稿が正しい、それ以外は騙りか嘘か釣り」という思い込みを強化することとなった。

それにより、「情報源(ソース)を要求」しながら「その情報源(ソース)を(根拠なく)否定」したり、「自分の考えに合う情報だけを真実と認定」するなどの弊害も現われた。

また、末期的な症状として、特に政治的情報について「2ちゃんねるやニコ動で『暴露』されていることだけが真実であり、他はマスゴミやサヨクなどの工作員による情報操作に騙されている。マスゴミ情報を信じるのは情弱」といった発言を行なう者がいる。彼らは「自分たちの信じたい情報」を「真実」と主張し、同じ考えを持つ者たちの間で情報を交換し合うことでそれが真実だという勘違いを強化し、「2ちゃんねるやニコ動のみが真実」「2ちゃんねるやニコ動の(都合のよい)情報は絶対に真実」という態度を固持する。

これは、常に情報の真偽や正確性を自問し続けるという本来のリテラシー(ひろゆきの本来の趣旨)とは正反対の方向であるが、ひろゆきの言葉が(ひろゆき自身の普段の言動も含めて)誤解を招く一因となっていることは疑えない。