大僧正天海1-05

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大僧正天海』第一編 修学 第五章 名山歴訪 の全文現代語訳である(松永英明訳)。本文中、(※)での注記ならびに脚注は訳注である。

大僧正天海 第一編 修学

第五章 名山歴訪

永禄三年(1560)、久しく籠もっていた母の喪から出た随風は、一笠一杖、飄然として故郷の山河を離れた。喪に服していた間にじっくりと考えていたのか、家の門を出るとすぐに下野国に向かい、足利学校[1]の門に入った。

足利学校は古代の国学(※国府に置かれた学校)の遺制であるが、この時代には下野国にだけ存在する唯一の庠序(※=学校)となっていた。足利義兼が国府野の地からここに移して、中華から来た先聖十哲[2]の像を安置し、もっぱら先王の道を講義させたので、世にほめたたえて足利学校として言い伝えたのである。

永享(1429~1441)のころ、上杉憲実が学校の退廃を嘆いて、廟を修復して学を起こし、古書典籍を文庫に収蔵させたので、海内の風流人たちがあらそってやって来た。その名声は遠近に隠れなきほどになった。

中興第一世の庠主を快元和尚という。もとは禅僧であったが、上杉氏の招聘に応じて来て生徒を教えたが、ひとえに儒者のようになったので弟子が堂に満ちて学風が大いに起こった。快元和尚は文明元年(1469)四月二十一日に亡くなって、天矣和尚が第二世を継ぎ、それ以降相続されてこのときに至っていた。

群雄が四方に起って簒奪や争いに明け暮れていた当時の世にありながら、超然として戦雲の外に安立し、金鼓の響きや矢叫の声を外にして、日夜書を読む声が絶えない足利学校は、まさに天下無二の聖堂であった。

今、第七世の庠主として、諸生徒を教える九華瑞璵和尚は、大隅国伊集院氏の支族であって、深く内典・外典に通じ、その中でも特に儒学の造詣が深遠であり、徳行もまたたたかったので、玉崗先生の名で四方に知られていた。その風を望み徳を慕い、贈り物をたずさえて門に入る者は数えきれず、生徒は三千名というのも嘘ではなかった。足利学校の興隆は、いにしえからこのかた、今日に及ぶことはなかったという。随風もまたその学徳を敬慕して、この門にやってきたのだった。

仏教に通じ、我が国の古典にも通じている心眼を開いて、熱心に研鑽したため、たちまちにして経・史の要点を理解し、諸子百家も思いのままに閲覧し、二年ほどいる間に頭角をぬきんでるようになった。この間、肘をとって談じ、膝を交えて語る道俗の友人も少なくなかったが、同じ天台宗の亮諶という僧侶は、ともに伝教大師・慈覚大師の末弟子として、同じ教義に養われ、同じ法門を極める身として、会うや否やたちまち旧友のように肝胆相照らし、意気投合し、親交はあたかも同胞のようであった。

叡山でも南都でも、気の合う友がいなかったわけではないが、亮諶と知り合った後に振り返れば、それはただ同宿・同学の交わりに終わるものではなかった。どのような宿世の縁があったのか、出会ったはじめから温かい血が通じるような思いをもって親しく接することとなった。お互いに慣れ親しむにつれて、骨肉のようによしみを通じ、部屋も同じくし、灯火も同じくし、食事を同じくし、枕も同じくするというほど、少しも離れることなく、連れだって行き来していた。

特に随風が身に儒学を修めたといっても、心は仏典研鑽のためにあるように、亮諶もまた他山の石を極めるのは自分の玉を研ぐのが目的だった。研究の方法が同じだったので、仏教の追究の上にも互いに利便があったのだ。ときにはともに鑁阿寺[3]を訪問し、東密(真言密教)の真言を学ぶこともあって、儒学の研究だけではなかった。永禄三年(1560)から六年(1563)に至る四年の歳月を足利学校ですごし、経典・史学・詩書・礼楽・諸子百家をほとんど究めたので、翌七年(1564)の二月、随風と亮諶はともに足利学校を退いた。

名山歴訪の道すがら、随風は亮諶に語った。

「今、わが天台の教義をみると、慈覚大師からこのかた、もっぱら顕教・密教の二法に傾き、円融・瑜伽の二座のほかはすべて余乗とするに至った。しかし、中国天台の山家大師の教義を考えれば、一乗三密のほかに仏心宗(※禅宗)を宗乗と定め、顕教・密教・禅の三教一致をもって仏法の大事因縁としたようだ。拙僧は幸いにして倶舎・唯識を学び、法相・三論・華厳を知って、奈良時代の仏法を修めることができたが、仏心の教理はまだ学んでいない。今から禅門の老漢を尋ねて、参禅するのはどうだろうか」

亮諶はすぐに同意して、

「言われたことはもっともだ。上州勢多郡新川(にっかわ)に善昌寺[4]という古刹がある。宗祖大師(※伝教大師最澄)が開基された名山であって、現在の元無法印に至るまで三十五世連綿と続いている。この寺にとどまっている禅客がいて、名を道器という。年齢はまだ若いが、兼学として知られている。この人に会いに行くのはどうか」

と言った。こうして永禄七年、新川の山寺を訪れて、しばらくとどまることになった。

評判に違わず、道器和尚は兼学の秀才であった。随風も亮諶も師を得たことを喜んで、朝には首楞厳経を聞き、夕には易経を問い、あっという間に一年あまりを過ごした。この間、随風はつくづくと大仏頂経の講演を傾聴して涙を流してこう言った。

「昔、智者大師(天台智顗)の名を聞いて、般刺尊者は腕を剖いて遠く伝えるという労苦をいとわなかった[5]。わたしは幸運にも、居ながらにして素晴らしい説きあかしをお聴きすることができました。『一念信を発するときは、業障を滅すること、天地を翻す如し』の一句、耳に触れて菩提を成すること、てのひらに果を観るようでした」と心を尽くして感謝を述べた。亮諶はこの一語を聴いて、随風の智恵が鏡のようによくものを写すことに驚いたという。

ここに居ること三年、随風は年すでに三十を超え、夏臘(※出家してからの年数)は二十年を越えた。学は和・漢・梵を兼ね、行は止観遮那仏心に通じた。徳器はいよいよ成ろうとしており、機も熟そうとしていた。ことに声音が朗々として遠く徹ると、「才知ある弁舌が縦横無碍である」と至る所の同宿から評価された。論席の弁難答折(※質疑応答)においては、猛虎を千里の野に放ったかのように、独行独歩であった。この上は一寺に住してあまねく利他の益を垂れ、後生を導いて台教を興隆してください、と勧めて説く人が少なくなかった。

このとき、関東八州にあっては、小田原城の北条氏康[6]が武威をたくましくして、長年坂東で権勢を誇ってきた両上杉氏を討ち滅ぼした後は、これに刃向かう敵もなく、八州の草木枝葉を鳴らす風さえなかった。

一方、越後の長尾景虎が敗将・上杉憲政に苗字扁諱を許されて上杉政虎と称し[7]、北越に武威を振るっていた。いずれは北条氏を滅ぼして、頼経将軍の例にならい[8]、近衛関白前嗣[9]を奉じて鎌倉の主に仰ごうと思い立った。永禄四年(1561年)三月、大兵を起こして上野に入り、武蔵の豪族を率いて鎌倉に入ったが、忍城の成田氏が心変わりしたため、事ならずして国に帰った。これより兵を川中島に出して、甲斐の武田信玄と何度も雌雄を争うに至ったのである。[10]

こうして北条の武威は再び復活したが、北条氏康・氏政父子が里見義弘父子と鴻之台で戦い、大いにこれを破ってから、兵威にほこる心が出たのであろうか、甲斐の武田と武を争って、合戦が数度に及んだ。この情勢をみた佐竹常陸介義重は北の葦名修理大夫盛氏と和を講じ、軍備を固めて北条の背後をうかがった。常陸・下野の家人らの中には北条に背いて義重に従うものが少なくなく、北条と佐竹が兵を交えることとなった。関東の野は、また昔のような太平ではなくなったのである。

この戦塵の間にあっても、随風の志は四明の霊山にあり、どうにかしてまたあの嶺に登り、山学山修の功を積みたいと思っていたので、たびたび道筋を確かめていた。中山道は武田・上杉が講和したのちは信濃路は平穏となっていたものの、美濃には織田信長が新勝の勢いをもって厳に境界を守っていたので、通路は最も難渋であった。北陸道は越後一国が謙信の威に服して国内平穏無事であったが、越中・加賀は一向宗徒が威を振るい、越前の朝倉・越後の上杉をもものの数としない猛勢であって、戦乱が絶えることはなかった。東海道は相模に北条があり、駿河の今川が凋落して、現に武田・北条の戦場となっていた。遠江・三河には徳川家康があり、尾張には織田があり、伊勢には北畠があり、近江には佐々木がいて、いずれも互いに敵視していたので、通行がほとんど途絶していた。そのため、やむなく時が至るのを待ち受けていた。

さて、この善昌寺は、新田義貞の老臣・舟田入道善昌が建立したと伝えられているが[11]、延暦年間、伝教大師開基の名山であって、関東においては台教最古の道場である。この地は赤城山脈の南に尽きた小丘にあって、地勢は高く、峰を負い、幽邃にして勝槩に富んでいる。太平山妙珠院と号して、塔頭が五院ある。先住の尊盛上人は、前年(永禄六年)に退隠して、老後をその一院で養っていた。

「境を関東の隅に占め、人里遠い山麓の山寺ではあるが、由来久しい古刹であるから、せめて海道・山道のうち、往来の便が開くときまでこの一院に住して、元無法印をたすけ、教旨の普及を計っていただきたい」と尊盛老上人までもが意を尽くして勧説したので、随風もついに辞することができず、ついに一院の住持に据えられることとなった。これこそ随風が寺を持った最初である。

善昌寺の世代については、「第三十五世元無:永禄六年入山、天正十四年退隠、ついで寂す、享年四十八。第三十六代道器:住山十八日にして寂す、享年三十八」とある。禅客道器が台教に帰依して世代に入ったことは明白である。ただ疑わしきはその享年である。この記のように天正十四年三十八歳にして遷化したとすれば、永禄七年はいまだ十六歳の成童である。兼学の天才が神のようなものであったとしても、いまだ人の師となりえる器ではない。これはおそらくは寂年に誤りがあろうか。また『新編上野国誌』には、「慈眼大師の住したまう寺なり、関東にて寺を持ちたまうは当寺なり」と注して善昌寺に住したように見えるが、元無が永禄六年から天正十四年まで二十四年間住山したとすれば、この間に大師が住すべき余地はない。おそらく善昌寺ではなく、塔頭の一寺だったのだろう。二百有余年前、野火の災に遭って炎上し、今はわずかに本寺のみが残るのみであり、住院の寺号さえわからないのは遺憾である。

天下は麻のごとく乱れ、英雄が雲のごとく起こって、弱肉はむなしく強食となる中で、義輝将軍は三好・松永に暗殺され、義澄将軍の孫・義維の子の義栄が普門寺の城に入って将軍宣下を受けたが、義輝将軍の弟で一乗院の門跡が還俗して義昭と名乗り、織田信長に頼って恢復を図り、永禄十一年(1568年)十月、三好党を追い落として第十五代の征夷大将軍となったことが、風の便りに伝わった。

永禄十三年(1570年)の春(この年四月二十三日改元があって、元亀元年となる)、随風は善昌の席を辞退して、またもや行脚の修行者となった。これはゆくゆく名山に巡遊し、知識を歴訪して、路を求めて比叡山に登るためであった。ある日、武蔵国入間郡川越の城下に至ったとき、ここに孤峰山蓮馨寺[12]と号する浄土の精舎があった。城主・大道寺駿河守重政の菩提所であるが、現住の存応源誉という人は歳は三十に満たないが智・行ともにそなえた令名が高いと聞こえていた。随風は、壮年血気の沙門が念仏に潜んで行を澄ませている風情が心憎く思われたので、ただちにその寺に推参した。

存応源誉は、平山武者所季重の子孫、武州埼玉郡由木の領主・由木左衛門尉重利の二男である。天文二十二年、十歳にして新座郡片山村にある太平山宝台寺[13]に投じ、蓮阿を拝して薙染し(仏門に入り)、永禄四年、十八歳にして白旗の風になびき、大長寺の存貞感誉に帰して名を存応と改めた。日夜師に近侍して得るところ少なからず、智行いちじるしく秀発したので、師・存貞の譲りを受け、ここに蓮馨寺第二世に据えられたのである。

随風は存応を尋ねて、何を語り、何を論じたのであろうか。問難答折に多時を費やしたのは、おそらく、聖道浄土の権実(権教と実教=方便と真実)、自力・他力の真仮、三部の妙典、一乗の妙典、爾前爾後の論弁であっただろう。随風の広学、存応の一貫、一上一下の討議こそ、一世の試聴をそびやかしたことは間違いない。この大論議があってから、重政は深く存応に帰敬して、常に招請法問があり、もっぱら懇志を運んだということが、その宗の史に載っている。

参照・注記

足利学校事跡考、山吹日誌、下野国誌、東源記、諶泰記、大師縁起、日光山列祖伝、東国高僧伝、義昌寺世代記、新編上野国誌、藩翰譜、野史、三縁山志、仏家人名辞書

  1. 足利学校:栃木県足利市昌平町2338。
  2. 先聖は孔子、十哲は孔子の弟子である顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓・宰我・子貢・冉有・季路・子游・子夏を指す。
  3. 鑁阿寺:栃木県足利市家富町。
  4. 善昌寺:群馬県桐生市新里町新川2728
  5. 史書によれば、天台智者大師は『法華教』を修めて法華三昧の境地に至り、「三止三観」を発明した。その後、一人のインド僧からその理論と『首楞厳経』が似ているところがあると聞き、智者大師は『首楞厳経』を読みたいと望んだ。天台山の山頂に拝経台を築き、寒暑も恐れず日々西方に向かって礼拝して、『首楞厳経』が中国に伝わるようにと望んだ。このような礼拝を十八年間続けたが、智者大師は亡くなってしまった。『首楞厳経』はいまだ中国に伝わっていなかったので、目にする機会はついになかった。
    その後、般刺密帝というインドの高僧は、智者大師が十八年間登台して経を求めたという話に感動した。般刺密帝法師はこの経典を訳して中国にもたらそうと思った。しかし、当時の国王は『楞厳経』を無上の宝物と考えていたので国庫の中に秘蔵されており、外部に持ち出すことは厳禁されていた。
    般刺密帝法師は最初、『首楞厳経』の抄録を持って出国しようとしたが、国境で見つかった。牢獄から解放されて自由になると、今度は小さな字で薄い白絹にこの経を写し、腕を切り裂いて肉の中に隠した。その傷が癒えるのを待ってから出国しようとしたところ、警備員にもとがめられず、渡海して中国に来ることができた。
    唐の中宗皇帝神龍元年(705年)、般刺密帝法師は広州に至り、房融に遭った(かつては宰相をつとめていたが、当時武即天女帝によって広州に流されていた)。房融はインド僧のもたらした法の宝を見て般刺密帝法師を光孝寺に招き、腕を割いて経を取り出して翻訳してもらおうとした。しかし、般刺密帝法師の腕の中から取りだした白絹はすでに血肉の塊となってしまっていた。房融の聡明な娘の提案により、母乳を使って白絹の血肉を溶かし、それでいて白絹上の文字を損なわないようにすることができた。こうして血を洗い流すと、貴重な『首楞厳経』の経文が現われた。――という伝説がある。
  6. 北条氏康:永正十二年(1515年)~元亀二年(1571年)。関東の山内上杉氏・扇谷上杉氏を逐って関東平野に勢力を広げた。
  7. 長尾景虎/上杉政虎:上杉謙信のこと。享禄三年(1530年)~天正六年(1578年)。
  8. 藤原頼経:鎌倉幕府四代将軍。三代将軍・源実朝が暗殺された後、九条藤原家の頼経が鎌倉に下って征夷大将軍となったが、執権北条家の傀儡将軍であった。建保六年(1218年)~康元元年(1256年)。
  9. 近衛前嗣:近衛前久。関白左大臣であったが謙信と意気投合した。織田信長の上洛時、将軍足利義昭によって朝廷から追放されるが、信長と親交を深め、一時は太政大臣をつとめる。本能寺の変の後は徳川家康を頼った後、隠棲。天文五年(1536年)~慶長十七年(1612年)。
  10. この一節は史実とのズレがみられる。永禄三年五月に長尾景虎は上野に入り、北条方の諸城を次々と陥落させた。永禄四年に入ると武蔵国へ進軍し、三月には小田原城を攻撃した(小田原城の戦い)。閏三月に山内上杉家の家督と関東管領職を相続して上杉政虎と改名した。しかし、この攻撃中に武田信玄が軍事行動を開始したため、撤兵する。成田氏は鶴岡八幡宮での関東管領就任式で謙信に無礼を咎められたために離反したが、このときの合戦には直接の影響はない。また、川中島の合戦はこの小田原城の戦い以前にすでに第一次~第三次の合戦が繰り広げられている。この後、有名な第四次川中島合戦へとつながる。
  11. 善昌寺はもともと大同元年(806年)に伝教大師最澄が上野へ下向した際に弟子・宥海が創建した大同寺であった。新田義貞が敗死した後、船田長門守義昌がその首級をこの大同寺に葬り、義昌はこの寺で生涯を終えた。それ以来、義昌寺というようになったという。
  12. 蓮馨寺:埼玉県川越市連雀町7-1
  13. 宝台寺:新座市道場1-10-13


大僧正天海