大僧正天海考異
大僧正天海 付録 考異。現代語訳・編集:松永英明。
この考異は、天海の伝記に基づいて、天海の出生について調査した文章である。
天海の伝記
世間流布の天海伝は4つある。
- 『東叡開山慈眼大師伝記』二巻(東源記)
- 慶安三年八月、天海滅後七年の撰述。花園妙心寺前住・東源慧等禅師。東源は臨済宗の禅師であり、もとより天海の門の天台宗徒ではないが、寛永己巳に天海のために流謫を赦され、これをきっかけに深く私淑していたために選ばれて紀伝の任に当たったものである。
- 『武州東叡開山慈眼大師伝』二巻(諶泰記/仙波伝)
- 万治二年十月、天海滅後十五年。東叡山現龍院主・諶泰僧正。諶泰の草書をもとに東源記が書かれたため、この二冊は内容にほとんど違いがない。元禄二年十月、慈海僧正がこれを喜多院の慈眼堂に納めたため、
- 『東叡開山慈眼大師縁起』二巻(胤海記)
- 大師の十大弟子の一人、本実成院僧正胤海。元三大師縁起と合わせて両大師縁起と称する。住吉具慶の彩画を加えた絵巻。原本は東叡山慈眼堂の什蔵で門外不出の秘宝であるが、延宝八年八月に開版されたため、最も多く世に知られる。胤海僧正は施薬院宗伯の一子であり、幼くして天海の室に入り、多年従事随遂の直弟である。父・宗伯も慶長戊申以来、天海と交わって最も親善であった。
- 『慈眼大師行状』詳細不明。
- 書名は聞かれるが、実際には見あたらない。
以上の三伝三記は天海に近い高僧によるものであり、後世の伝記と違って信憑性が高い。
- 『慈眼大師年譜』
- 凌雲院大僧正義厳がこの三つに基づいて編纂したが、第六巻で中断、寛永元年以降の事跡は載っていない。
- 『日光山列祖伝』
- 仏教徒によるもので、史実をないがしろにする傾向がある。
天海の出身各説
三伝に基づいて、天海の父母、生年を知ろうとすれば、以下のとおり。
- 『東源記』
- 釈天海前大僧正、世姓三浦氏、為通之末、蘆名盛氏系族、奥城会津郡高田人也、椿萱久以無嗣而為嘆息、此故夫人深企大願、奉乞儲子於月天子、(中略)特尽敬而仰拝、信心不休以累歳月、或夜夢呑奇華一片、仍懐孕、嘗不歴困難而誕而已。
- 『諶泰記』
- 東源記と同じだが、「九月而誕」を加えるのみ。
- 『胤海記』
- 慈眼大師、諱天海、陸奥国会津郡高田の郷にて生れ給ひ、蘆名修理の大夫盛高の一族となん。又将軍義澄の御子といへる人も侍り。海師います内、俗氏の事人の問ひしかど、姓名も行年も忘れていざ知らず、一度空門に入りぬれば、何にもあれ知りてよしなしとて、のたまはざりければ、その実知りがたし。
本朝高僧伝、東国高僧伝、天台霞標なども、みなこの三記と同様、父母を説かず、方処を説かず、誕時を記さない。
蘆名譜では、盛氏は盛高三代の孫であり、盛高は盛氏の三代の祖である。これは、天海の年齢に大差を生じる原因である。両者の没年を見ると、盛高は永正十四年(1517)十二月をもって卒し、盛氏は天正八年六月(1580)をもって卒している。
もし、胤海に従って盛高の一族とすれば、天海は永正年間(1504~1521)の生誕にして、その年齢は135歳から132歳の間となる。
東源に従って盛氏とすれば、その生誕は天文年間(一五三二~一五五五)であって、年齢はまさに108から90歳の間となる。
どちらも歳時を記していないが、宗族の違いがこのようであるため、後世の人はどれが適切かわからず、ついに、上は135歳から下は90歳に至る12個の異説を生むに至ったのだ。
年譜に挙げたものだけでも、父母と誕生時について、9個の異説がある。
- 一 福山藩士三浦小五郎系譜に基づく阿部大学正信の考証。
- 慈眼大師は、足利十一代征夷大将軍三位左馬頭源義澄の男也、永正六年九月十八日、城州に生る、或は江州に生る。母は奥州会津郡高田城主三浦盛高の女也。同年八月十四日義澄公江州丘山に逝去の後、母とともに奥州に下向、是より外祖の氏を称して平姓となる。幼名詳ならず。
- ※1509、135歳説。
- 二 天保十二年書上、宇都宮弥三郎系図。
- 従四位下下野守正綱女、実は妹、延徳年中の産、高基公(古河公方)の御台となり、永正七年天海南光坊慈眼大師を誕む。正綱姉、会津城主三浦盛信の男盛詮の室、盛高の母、南光坊を養ひて成長せしむ、故に本姓にて蘆名盛高家に成長する謂に、外祖の姓を称し、蘆名と称す。
- ※宇都宮正統系図では、正綱の系中、成綱、女と列記。その女の下に「古河御所熊野御堂殿、高基御台、晴氏将軍母公、享禄三年寅年十月七日遷化」。天海を生むという文なし。
- ※1510、134歳説
- 三 『北越太平記』南麻主計の直話
- 天海僧正御物語に、此頃甲陽軍艦と云ふ書物を板行に付、之を見るに、川中島合戦に信玄と謙信と太刀打の年月、場所、大に相違、其上信玄団扇にてうけ候と有之、大なる虚説也。其時分我等は会津不動院に住し、信玄の祈祷師也。天文二十三年八月、甲州へ檀那廻に行く所に、信玄は川中島にて謙信と対陣と聞き、直に川中島へ見舞に行く、八月十七日也(中略)其後又江戸御城にて、横田甚右衛門咄に、謙信の太刀にて被切懸候に、信玄は床几に居り団扇にて被受候と語る。慈眼大師大に横田を御叱ありて、甚五郎は未生以前の事を何とて可存候や、我等は直々に見たるに、御幣川へ乗込み、馬上にて太刀打なり、その節我等は四十五歳云々、伝曰、天海大僧正慈眼大師は、足利公方法住院義澄公の御末子、母は会津の蘆名盛高の娘、永正七年に誕生、御父義澄公薨去に付、母と同道会津へ下向、外祖の氏を唱え平氏と称す、寛永二十年癸未十月二日円寂、百三十四歳なり
- 四 王代一覧
- 寛永二十年八月天海僧正発病、十月二日寂、歳百三十三、野州日光山に葬る。
- 寛明事跡録
- 寛永二十年十月、南光坊天海遷化、則被贈慈眼大師于時百三十三歳。
- ※1511、133歳説
- 五 上野慈眼堂所蔵、足利義真書上、足利系図の所伝
- 十二代万松院義晴公の直弟、義澄二男天海、御諱亀王丸、永正九年正月誕生。義晴、義維、義栄は播州に隠居(義植再度上洛のため)亀王丸は叡山衆徒饗庭西林坊光尊隠し置き、永正十一年光尊野州足利の庄に潜み、鑁阿寺に供して下り、夫より会津城主蘆名修理大夫盛高を頼む。盛高足利へ高房という侍を使者に差越して、会津へ供し下る。盛高永正十四年十二月八日逝。依之大永二年亀王丸出家し給ふ。義植没落、義晴播州より上洛、征夷将軍に任ず。天正七年亀王丸上洛義晴に対面して父子の契約、暫く叡山にあり、又奥州に帰り給ふ。因て義晴子と記載する也。
- ※1512、132歳説
- 六 本朝続々史記、元和元年の条
- 天海は当年歳積りて百六歳なれども、七つ八つの小児のころの事をも万事忘れ申されず。
- 開運記、慶長五年の条
- 八十三歳
- ※1518、126歳説
- 七 参州松平御系図大全
- 天海は古河左兵衛佐高基の四男、天文十一年壬寅生。天正十七年蘆名義広会津没落の時、天海会津稲荷堂の別当なり、四十八歳。寛永二十年十月遷化。享年百二歳。
- ※1542、102歳説
- 八 和漢三才図絵
- 慈眼大師諱は天海、南光坊法印と号す。姓は三浦氏、奥州高田郷人なり。寛永二十年十月二日逝す。其の寿未詳凡百余歳也。
- 九 陸奥国大沼郡高田郷龍興寺浮身観音縁起
- 于粤開山より当二十八世、有号舜幸法印沙門南光坊探題前大僧正、謚号慈眼大師は、氏者蘆名修理大夫平盛高の一族、船木氏の御子、父母及壮年御子なき事を憂ひて、文殊菩薩へ祈を掛け、生れ給へり。幼年より酒肴喰ひ給ふ事なく、強てすすむれば嘔吐し玉ふ。故に生得の比丘とは言ひける。又文殊の化身とも申也。七歳にて舜幸法印に随ひ出家す。この時永禄三年庚申。
- ※1554、90歳説
さらに六個の異説あり。
- 十 華頂要略、日光門跡代々年譜等
- 第二と同じく享寿134歳とするもの。
- 十一 門跡伝毘沙門堂の条下の註
- 慶長十四、十二、九、賜智楽院号、同十七、賜仙波星野山、同十八、賜日光山、慶安元、四、十一、謚慈眼大師、寛永廿、十、二、寂、百廿四歳
- ※1520、124歳説
- 十二 下野国志所載宇都宮系図
- 正四位左少将右馬頭下野守成綱の直系に、孝綱、忠綱の次に女子を挙げ、古河公方左馬頭源高基室、左兵衛晴氏、及宮原左馬頭晴直、大僧正天海等の母、享禄三年庚寅十月七日天海誕生後逝去と註
- ※1530、114歳説
- 十三 孝亮宿禰日次記、寛永九年四月十七日の条下
- 於東照社薬師堂法華万供有之云々、導師南光坊大僧正、今年九十七歳
- ※1536、108歳説
- 十四 日光山列祖伝、第五十三世中興座主慈眼大師伝の末
- 集衆誡之曰、時節已至、我欲行矣、汝等諸人、無事世浮沈、提唱宗教足矣、言畢端坐、泊然而逝、実寛永二十年十月日也、春秋一百有六
- ※1538、106歳説
- 十五 新編会津風土記、大沼郡高田組の条
- 釈門、天海、父を舟木道光とて清龍寺の文殊堂に祈り、天文十七年正月朔旦に誕生せり。永禄三年龍興寺の現住舜幸を師とし、十三歳にて剃髪す。
- ※1548、96歳説
以上のまとめ。
年齢
135(1) 134(2,3,10) 133(4) 132(5) 126(6) 124(11) 114(12) 108(13) 106(14) 102(7) 96(15) 90(9)
氏族
- 足利将軍義澄の男(1,3,9)
- 古河公方高基の男(2,7,12)
- 蘆名盛高の一族、舟木氏の子(9)
- 舟木道光の男(15)
氏族について
足利義澄の息子説
その一。足利義澄の男という説は、最も広く世に行なわれる。この説は後年の伝聞にあらずして、天海在世のころ、早くすでに人口に流布していたようである。この証拠として、『天正日記』の残闕がある。この記録は、天正十八年六月、江戸経営の命を受けて、小田原の陣中より特派された内藤清成の日誌であり、当年における唯一の資料である。その十月一日の条に、
「せんばのきたいん参る、しのだのふどういん、是は京都将軍おとしだね也」
と記されている。
また、柳原紀光の『続史愚抄』は、後年の纂輯であるが、
「寛永二十年十月二日、前大僧正天海(南光坊、東叡山開祖、輪王寺開基、毘沙門堂中興祖、法住院太政大臣義澄男)薨す」
と記し、慶安六年四月、謚号宣下の条にもまた同一の脚注がある。
文学博士小中村清矩の陽春廬蔵本であった『あつめぐさ』と題する抄本の中に、新銭座奉行鳴海家の由緒書あり。三代目鳴海兵庫則賢の由緒に、
「銭奉行職相勤罷在候処、永正七庚午年足利将軍尊氏公十代之後胤法住庵義澄公若君御誕生也。御母は会津蘆名右衛門大夫盛隆(高?)之姫君也、故有会津へ御帰、若君も伴に御下向、此節若君外祖蘆名昔(者?)平氏姓世に申奉候。右従京都会津え御下向之節、従足利家兵庫を御附下し被成候」
四代目同刑部重則の由緒に
「義澄公若君御出家之後、不動院御住職被成候節、境内支配役被仰付相勤申候。又兵庫会津にて病死仕候。其後水戸え罷出、佐竹家より扶助を請。浪々罷在候」
とあり、有力な証拠と思われる。
この真偽を判断するには、正確な足利家系図によるのがいいだろう。続群書類従所載の足利系図は以下のとおり。
- 義澄 文明十二年十二月十五日誕生、母権大納言藤原隆光卿女、明応二年十一月廿四日任征夷大将軍、永正五年二月十六日京都没落、同八年八月十四日江州岡山城薨、三十二歳。
- 義晴 永正八年三月五日誕生、同年自江州到播州下向、同十八年自播州上洛、大永元年十二月廿四日征夷将軍、天文十五年十二月廿日右大臣、同日与奪将軍任息男、天文十八年六月廿七日、将軍御父子没落江州、同十九年五月四日薨於江州穴太、四十歳。
- 義輝 母准后関白尚通女、天文五年三月十日誕生、同十五年十一月廿日征夷大将軍、二十二年八月朔日大樹以下出奔、永禄四年七月廿八日江州出陣、八年五月十九日三好家為沙汰生害、三十歳。
- 義晴 永正八年三月五日誕生、同年自江州到播州下向、同十八年自播州上洛、大永元年十二月廿四日征夷将軍、天文十五年十二月廿日右大臣、同日与奪将軍任息男、天文十八年六月廿七日、将軍御父子没落江州、同十九年五月四日薨於江州穴太、四十歳。
- 義昭 母慶寿院、義輝同腹弟也、天文六年十一月三日生、永禄十一年六月信長合力入洛、十月十四日征夷大将軍、天正元年信長不和、合戦敗北、同十三年出家、号昌山道久、准三后、慶長二年八月廿八日薨、六十二。
- 周暠 謚照山西堂。同母、鹿苑寺、永禄八年生害。
- 女子 三昧知恩院、同母。
- 女子 大慈院、同母。
- 女子 宝鏡院理源、母一色式部少輔女。
- 女子 若狭武田大膳大夫義統室。
- 女子 三好義次室。
- 義維 大永七年七月十三日叙左馬頭、無覚寺殿、道号中山。
- 義栄 永禄十一年二月八日征夷将軍、同年九月憂腫物薨。
写本諸系図ならびに刊本諸家大系図は、幾分省略してあるが、男系はこれと異なることなく、義澄の直系には、単に義晴、義維をのみ挙げ、他に天海に相当するものを掲げていない。
では、足利義真書上げの足利系図の所伝のように、義晴の直系に属するものであろうか。その系には万松院義輝、霊陽院義昭、鹿苑寺周暠の三男子五女子あるが、男子はみな九条関白尚通の娘が生んでおり、ここにもまた天海に相当する者は見つからない。
鳴海家の由緒書は一・三・五の説の裏付けを与えているようではあるが、蘆名盛高の娘が果たして将軍家の夫人となった事実があったかどうかは不明である。足利将軍累代の夫人は、いずれも貴族であって、いまだ麾下の列侯からの例はない。ただ一人、義澄の夫人は、義晴の母氏を明らかにしていないため、誰の娘かも明らかではないが、礼式を整えて迎えた夫人ではなく、局、家女房の類で二子を挙げたのではないだろうか。元来、義澄は関東公方堀越御所政知の三男だったのを、細川政元が密かに入洛させ、まず天龍寺の喝食とした。将軍義材を逐うに及んで、擁立して将軍とし、政元没後も年少気鋭の澄元の意を迎えて、在職十六年。いたずらに虚器を擁したにすぎないので、婚礼のことさえも意のごとくならなかったかもしれない。もし、その夫人が蘆名氏の娘であったとすれば、何をはばかって姓氏を系譜から削ることがあっただろうか。さらに進んで詮索すれば、当時、天下麻のごとく乱れ、隣国の交通すら途絶するとき、危険を冒し、不便を忍び、遠く二百里外の奥州の一侯伯の娘をめとるべき理由があるとも思えない。しかも、系譜が示さず、紀伝も伝えないのである。
しかし、この足利系図も決して完全なものとは言いがたい。義維を義晴の次に列して、あたかもその弟であるかのごとく表示しているが、三好記によれば、「義維の子義栄、島公方義植の跡を継ぎ、永禄十一年十四代の軍職にのぼり、秋九月薨ず、時に歳五十八」とあり、計算すればその生誕は永正八年であって、義晴と同齢である。とすれば、義維は義晴に長ずること、少なくとも十六、七年の兄でなければならない。仮に十六歳にして義栄を誕したとすれば、義維は義澄十七歳の子であって、長子であることはもちろんである。しかし、長幼を逆に置き、嫡庶を転倒したのは、杜撰でないとすれば、正閏の差別があったためだろう。つまり、義維の母の血筋は義晴よりも卑しく、このために世に立つことができず、むなしく阿波に隠れて徒死するに到ったものであろう。元来、義維は史上の黒影で、新井白石も疑いを抱いたほどなので、詳細を知ることは難しいのだが、このように考えれば、義澄の後宮の整わなかったことはうかがい知れる。これは職として正室がなかったためと言ってもいいのではないか。
第三に挙げた『北越太平記』の説は、古武士の直談であり、最も信憑すべきものにみえる。この説が真正であれば、たとえ足利義澄の男子でなくても、永正七年生誕の歳時は確かなものとなるはずである。『太平記』によれば、南麻主計は上州滝ノ沢松橋の城主であったが、後年、天海僧正の推挙によって、紀州徳川家に召し出されたという。そこで、侯爵徳川頼倫氏の家司に就き、南麻氏の由緒を問うたところ、「同家には家祖南龍公、初めて封を駿河に受けてから、近く明治廃藩に至るまで、精細に家士の分限を記録した簿冊があり、一目でその出入りがわかる。しかし、かつて南麻主計の姓名はなく、また松橋城主の新規召し抱えられた記事もない。他家の誤伝ではないか」との回答を得た。
改めて記文を調べると、疑わしい箇所が二、三ではとどまらない。
「其時分我等は会津不動院に住し、信玄の祈祷師也」と言ったとあるが、この言葉は決して天海の言葉ではない。なぜなら、天海が会津で住んでいたのは不動院ではなく稲荷堂である。天海が澄んでいた不動院は、会津ではなく常陸江戸崎である。これを年代に配すると、稲荷堂で別当であったのは天正元年であって、天文二十三年より十九年の後である。また、不動院に住職したのは、天正十七年であって、さらに十七年の後である。
また、「信玄の祈祷師也」として、陣中見舞の当然であるように陳べているが、当時、信玄は禅門に帰依して、一乗(天台)を信じていない。それが初めて天台に帰依し、教観を学ぶに至ったのは、永禄九年のことであって、これも天文二十三年よりは十三年の後である。なお、信玄が初めて天海を知り、その偉大な人物を尊んで帰依の思いを寄せたのは元亀二年の秋、毘沙門堂論議のときであることは、諸伝の示すとおりである。
これらの錯誤を総合して考えるに、『北越太平記』は、いわゆる小役人の野史であって、荒唐無稽・ウソでたらめ、資料とするに足らぬ書ということになる。引用した伝をまともに受け取ることはできない。
以上、考察したことから考えれば、義澄男という諸説は、史上何らの根拠を持たない世伝の訛説であるとわかる。しかし、一つだけ抹殺できないものがある。それは『天正日記』の記事だ。天海が足利将軍の末裔であるということは、当時、すでに世間で流布していたものであり、内藤清成もまたこの風評を耳にして、特に日誌に注記したものであろう。この風評が起こった理由は、今はよくわからないが、天海は深く禅機に達して、好んで不即不離の語を吐き、応答人の意表を突いたこともあるようだ。たまたま、人が俗氏を尋ねても、端的に家系を説くことなく、常に奇矯な言葉ではぐらかしたため、問う者はいろいろと詮索できず、ついに真相をつかむことができなかったのだろう。しかも、その容貌は俊邁で、衆を服する威風をそなえ、品位は超絶しており、俗に異なる挙動があるのを見て、必ず凡人ではなく、貴族の隠し子である、と喧伝したというのが一因であろう。
また、足利将軍の末裔であると盲信する原因となったのは家紋である。天海は蘆名氏の族として、常にその家紋を用いている。蘆名氏は三浦義明の子、佐原義連から出て、三浦氏の三引両を略して、二引両として常用したもののようである。『新編会津風土記』によれば、「大沼郡高田町、国幣中社伊佐須美神社に、高田城主蘆名盛安、盛常父子納むる所の神輿あり、左三巴の神紋に配して、丸に二引両の家紋を打てり」とあり、蘆名氏が二引両を用いたのは動かしがたいと思われる。
蘆名氏は平家である。足利氏は源氏である。家系にはいささかも因縁がないが、たまたま家紋が同じであった。しかも、一方はあまり世に知られていないのに、一つは天下将軍として目立ち、二引といえばただちに将軍の紋章として崇敬すること、数百年の因習となって全国に広まった。そこで、天海の使っている什器に多くこの紋章をつけたものがあるのを見て、僧たちは「疑いもなく足利将軍の落胤である。ウソだと思うならその紋章を見よ」と言ったものがいて、「一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝う」というわけで、史家が誤り伝えることになったものである。これは詮索にすぎるかもしれないが、他に的確な資料がないため、このように仮定したい。
古河公方足利高基の息子説
その二。古河公方足利高基の男とする説のうち、参河松平系図大全のように、高基没後八年にして生誕したかのような妄説は考慮にも値しないが、宇都宮系図の所伝は看過しがたい。
天保十二年書上げ、宇都宮弥三郎系図には、「従四位下下野守正綱の女、古河高基に嫁し、永正七年天海を生む」とし、正統系図には「成綱(正綱)の女、古河御所熊野御堂殿、高基公御台、晴氏将軍母公、享禄三年寅年十月七日遷化」とし、他の宇都宮系図には、「成綱の女、古河政氏室、永禄三年庚寅十月七日卒」とあり、三譜ことごとくその伝を異にしている。なお、続群書類従所載の宇都宮系図を見ると、「成綱の女、古河御所政氏室、享禄三年庚寅十月七日卒」とあり、第三に挙げた宇都宮系図と同様である。第三系図に永禄とあるのは享禄の誤りであろう。永禄三年は庚申であって、庚寅ではないからである。
『下野国志』所載の宇都宮系図に照らすと、
- 成綱 正四位、左少将、右馬頭、上野守、弥三郎、母佐竹掃部助源義親女。永正十三年丙子十一月八日卒、四十六、法名長淵禅之、号慈光寺。
- 忠綱 従四位侍従右馬頭下野守、母那須掃部助藤原資親女。大永七年丁亥十月十六日卒、法名窯山長雲。
- 女子 古河公方左馬頭高基室、左兵衛晴氏及宮原左馬頭晴直、大僧正天海等之母、享禄三年庚寅十月七日天海誕生後逝去
- 女子 勇気左衛門督藤原政朝室、左近将監政勝及小山高朝母。
とあって、成綱の娘が古河高基に嫁し、天海を生んだのは事実のようにみえる。しかし、弥三郎系図は正綱の娘としている。世代で一世の差がある。他の二系図は古河政氏(高基父)の室としている。ここにもまた一世の差が生じる。 ここで『続群書類従』所載の古河公方系図と照合すると、
- 政氏 従四位下左馬頭、享禄四年七月十八日卒、号甘棠院道山吉長。
- 高基 従四位下、左馬頭、天文四年六月八日卒、号潜光院高山貴公。
- 義明 初出家法名空然、号八正院、永正七年還俗、任右兵衛佐、号小弓(生実)御所、天文七年十月五日戦死於下総国府台。
- 頼基 與義明同戦死。
- 貞岩和尚 甘棠院開山。
- 女子 松岡十六世渭維和尚。
- 晴氏 又名藤氏。母宇都宮下野守成綱女、従四位下左馬頭(左兵衛頭)、義晴将軍賜諱字、号晴氏、永禄三年五月二十七日卒於下総国関宿、法名系山道統号承仙院、又号妙泰院。
- 雲岳 甘棠院二代。
- 晴直 初名憲広、三郎、左馬頭。為上杉憲房所養、継関東管領職、称上杉憲広、後憲房子憲政及長譲職於憲政、退去上野国宮原、復本姓又改名晴直、人称宮原御所、号春融院。
- 義勝 弾正少弼、祥雲院。
- 東岳 甘棠院三世。
とあって、政氏の室は欠けて伝わらない。高基の室は、明らかに宇都宮下野守成綱の娘である。そして、ここに三男子あることは『下野国志』所載系図と同じだが、こちらでは二男に僧雲岳を挙げており、下野国志では大僧正天海を挙げている。雲岳は疑いもなく高基の男で、甘棠院二世の住持である。甘棠院は武蔵国埼玉郡久喜町にある臨済の巨刹である。『新編武蔵風土記稿』第二一巻を見ると、政氏嫡子高基と不和になったとき、ここに来て館を建てたが、後年捨てて寺院とし、自分の真堂とするために、その子僧貞巌(縁起には弟とあり)をして住せしめたるよしを記している。とすれば、雲岳は叔父の衣鉢を受けて甘棠院の二世に坐し、後、またこれをその甥東岳に受け継がせたことは、系譜の示すとおりである。
『国志』所載の系図に大僧正天海とあるのは、おそらくは雲岳の誤りであろう。原系図には単に僧とだけあったものを、後人が天海の足利氏の隠し子という説に惑わされてこれを天海としたもので、ついにこの注記を生むことになったのだろう。足利譜にも関東公方の系を伝えるが、天海の記入がないのを見れば、おそらくこの推測を外れてはいないだろう。
船木氏の子説
その三、蘆名盛高の系族、船木氏の子というもの。および、その四、船木道光の男というものとは、もと同一説であるため、合わせて考えると便利である。
陸奥国大沼郡高田城は、南北朝の頃築かれた城塞で、文明の末までは小俣宮内少輔という者が領していた。当時、会津郡黒川の城主蘆名修理大夫盛高は会津仙道統一の志あり、しばしば高田城を攻めるが、城兵はよく防いで抜くことができなかった。たまたま、小俣の一族が城を出て宮川に遊漁する。盛高諜知して不意を討ち、小俣氏亡び、ついに落城した。これが文明十三年五月のことである。
それ以来高田城を誰が領有したか史料に残っていないが、伊佐須美神社、清龍寺文殊堂などにある古宝器によれば、蘆名盛安、盛常の父子が相継いで領有したようである。盛安が誰の子かはわからないが、盛高の弟かもしれない。永正十二年四月、清龍寺紋樹堂に奉納された鐘銘を見ると、大檀那平盛高、同平盛安と並び記されている。そこで、盛高・盛安は単純な同族本家分家の関係にとどまらず、兄弟の関係があったものだろうと思われる。あるいは、父子かもしれないが、蘆名系図には盛高の直系に出羽判官盛滋、遠江守盛舜の二子を挙げ、盛滋大永元年に卒して、弟盛舜家を継いだとある。また、大永六年には盛安すでに老いて、家をその子盛常に譲ったというしるしがあることからすれば、盛安は盛高の子ではなく、その弟であろうと思われるわけである。
高田城主蘆名氏の考証はここまでにして、さらに船木氏について考えてみる。
『慈眼大師誕辰考』には船木氏の略系をかかげ、「其僧正天海五代の祖船木兵庫亮正恆、前には足利氏に属し、後、宮方に帰す、奥州会津に来りて高田に住し、蘆名盛員に仕ふ」とあり。
また、高田龍興寺所在船木氏の墓銘には、「船木兵部少輔景光者、三浦氏為通の末子、蘆名盛氏公の系族、二本松左馬頭吉照之二男、二本松右京亮吉継之子也云々、蘆名盛氏公内室弟、船木左近輝景長子、釈天海父也、天文九年子七月朔日」と刻し、またこの墓に並んで一つ碑がある。これには、「船木兵部少輔景光内室、船木輝景息女、釈天海母也。永禄二年亥三月十七日」と銘したるよしを記している。
天海五代の祖、正恆が仕えた蘆名盛員は、大夫判官遠江守と称し、建武二年八月七日、相模片瀬川において父子ともに戦死したことが『太平記』に書かれている。つまり、蘆名氏中興の祖・若狭守直盛の先代である。
また、景光夫妻の碑銘は、もし当年の建立とすれば動かせない証拠であるが、後年の建立であれば天海の名声に基づいて伝記に合わせるために曲筆舞文したものかもしれない。あながち信じるわけにはいかないが、船木氏が久しく高田に居住していた土豪であることは、菩提寺に多くの古碑があることからわかる。
『慈眼大師誕辰考』は何者が書いたものかわからない。松平正之の『会津風土記』に、「慈眼大師、姓船木、諱天海、大沼郡高田人、永徳年中従舜幸薙髪于同郡龍興寺」とあるのをもとにし、また『新編会津風土記』に「慈眼大師、父を船木道光と云ふ」とあるのを引用して、諸説を混ぜ合わせているものなので、信頼すべき書ではない。永徳は北朝後円融天皇即位十年より十三年に至る年号であって、南朝の弘和に当たる。仮に永徳三年に薙髪したとすると、寛永二十年まで二百六十一年となる。十一歳で得度したとすれば、寿命は実に二百七十一歳である。天下にこんな長寿の人はいない。言うまでもなく永徳は永禄の誤りである。
龍興寺は『会津旧事雑考』にも記すとおり、嘉祥年中慈覚の創建であるが、応安(北朝)年中、僧恵雲によって中興し、それから十二伝して幸舜に至ることを考えると、直ちに永徳の徳は禄の誤りであることはわかるはずである(応安七、永和四、康暦二、康暦三年二月、永徳と改元す)。之を考えずに、正之の知識や才能、人格を崇敬し、その誤字さえも盲信して、おかしなことを言うことになったのだ。
しかし、天海が蘆名盛高の系族、船木氏の子であるということは、これによって確定的な資料を得たことになる。東叡山寛永寺において、新たに採取した文書について調査すると、船木家に伝来する系譜には、兵部少輔景光に二子あり、長男兵太郎は僧天海となり、二男藤内は、景信と称して家を継いだものとある。また、龍興寺所蔵の系譜には、「天海僧正は享禄元戊子年正月朔日御降誕、十一歳而天文七戊戌年大沼郡赤館庄高田天台宗道樹山玉泉院龍興寺舜幸法印御師範而以出家」と記載されている。原書の年号、享禄、天文の墨色に異状があるので年代は信用できないが、生誕・得度の出所は明確となった。
しかし、『新編会津風土記』には「父を船木道光という」と記し、こちらには「船木景光」とあって一致しない。どちらかが誤りかと思われるが、高田町長田中仙三氏の説によれば、この地方では、中興の祖や家に功労ある人を呼ぶのに、その諱を称することなく、すべて法号を称する慣例がある。このため、土地帳に誤って道光と記したのを、風土記編纂の際、そのまま使ったものではないか、という。龍興寺にある天海の父母の位牌には、
- 天文九庚子年七月朔日
- 椿萱院殿義永道光居士 霊位
- 浮身院殿観光妙照大師
- 永禄二己未三月十七日
と銘し、牌陰には船木兵部少輔景光霊と彫ってあるという。この牌の上に葵の紋章がついているのを見ると、天海が幕府の戒師となった以後のものであろう。しかし、その様式は古く、書体なども寛永以後の様子ではないというので、天海在世の作成かもしれない。これによって、船木景光であることを立証し、また母親の名前が照と呼ばれていたこと、また父母の没年がわかるのは、大いに文献の欠漏を補填して余りあるといえる。
船木・蘆名二家の交渉に至っては、資料がまったくないが、天海が蘆名氏を尊重して、自らもまたその系族であることを表明したのは事実である。
和歌山市の男爵・三浦英太郎氏は三浦将監為時の後裔である。為時は天海の甥にあたるという。家に蔵する海老鎖切の太刀は、天海から伝来するもので、当時の譲り状がある。
- 今度参府仕合能帰国珍重存候。弥奉公不可有油断候。仍三浦重代、清和、三浦十二天、虵切丸、海老鎖切、天狗呼、右五腰者代々相伝之利剣、有其謂事候。一乱之砌頃紛失、海老鎖切耳相残候。自然為名代相伝隠置候へ共、沙門云老後云貴公へ相渡候。至子々孫々名字之可為重宝候。猶度々直談申渡候間、不能具候。恐々謹言。
- 林鐘五日 天海花押
- 三浦将監殿
- 人々御中
ここにある名代は、すなわち名字の代表者として相伝したということであって、天海自ら三浦氏の系族であることを語っている。また、男爵家にある三浦長門守の系譜にも以下の一章があり、合わせてみると三浦すなわち蘆名氏の累系であることがわかる。
- 寛永元年甲子年二月、為時日光山え社参仕候節、慈眼大師日光に被成御入、幼少之時御約束之三浦重代海老鎖切之刀、為時に御渡被下候。其節大師御申聞候に者、吾俗種者蘆名氏也。幼少に而為僧候共、太刀常携之。子興家之有器量、幼稚之初心已に欲許子、差賜之由にて御譲被下候。右刀竝御添状今に所持仕候。
一右海老鎖切之刀、三浦介時継被誅候後、慈眼大師御手入御座候を、為時え御譲被下儀に御座候。
龍興寺墓銘を見るに、景光は二本松吉継の子にして、出て船木氏を襲い、孺人は蘆名盛氏の夫人の弟船木左近輝景の娘であるようだ。盛氏の夫人は誰の娘か資料がないが、盛高の夫人は伊達氏の娘である。(大膳大夫尚宗、もしくは左京大夫植宗の娘であろう)。盛氏、またその子盛興のために伊達左京大夫晴宗の娘をめとったことからみれば、領内の被官、もしくは処士の娘を娶るべき理由はない。必ず奥羽近国の侯伯から迎えたはずである。
それならば、天海と蘆名氏とは、どうして系族の関係を生じたのか。よくわからないけれども、前後の事情から考えて、その母方につながるものであろうと思う。仮に高田城主蘆名盛常の娘が船木景光に嫁いで天海を生むとしたい。この説は私の個人的想定にすぎないが、反証がない以上、この説を主張しておきたい。
年寿
世系・方処の二点はほぼここに尽きる。なお尽きないのは年寿である。そもそも、天海が長寿であることは世に隠れなき事実であるが、果たして行年いくつで寂したのか、その差四十五歳に及ぶため、考えづらい。
ただし、永正六年より享禄三年に至る生誕説、つまり百三十五歳から百十四歳に至る享寿説は、以上の考証によって問題外となる。よって、天文五年より同二十三年に至る百八歳から九十歳の諸説について考えるに、私は、近代の学説に従って、天文五年生誕、年寿百八歳の説を採ろうと思う。
その証拠として引用すべきものとしては、壬生官務の日誌、すなわち『孝亮宿禰日次記』である。これは読んで字のごとく、その日々の日次の記であって、決して後代の補筆を許さないものであることは言うまでもない。特に、壬生孝亮官務として日光山の勅会に臨み、親しくその祭事を目撃し、自らその年齢を聞いて、特に後年の記憶に備えるため手録したものであれば、寛永九年において九十七歳であったことは、充分信を置くことができる。
それだけでなく、慶長十五年九月、比叡山法華大会の際、広学堅義探題職を請う款状に、「夏臘既闌(げろうすでにたけて)、傾干七旬」の語あり。これを百三十五歳として計算すれば、当時百二歳、法臘九十一となり、さらにこれを年寿九十歳として計算すれば、当時五十七歳、七歳で得度したとしても、臘わずか五十一年にすぎない。なぜ七旬に傾くといえようか。
試しに天文五年生誕、天文十五年得度で計算すると、年寿において七十五歳、夏臘において六十五である。すなわち、七旬に「傾く」といえる。
これ以外の年臘に当てはめても、一つとして七旬に応ずるものがないため、年寿百八歳が最も真を得ているといえる。
また、これを伝記に当てはめると、元亀二年、甲府大論議に参したとき、「天海亦入此会、于時位丁中臈」の文あり。天海ときに三十六歳、まさに中臈に当たる。また、正覚院僧都豪盛に師事して慧心流の奥義を修めるが、豪盛はこのとき四十六歳、年齢差十一歳であるが、一方は山門三院の宿老、一方は無住の凡僧なので、師弟としてはちょうどいい。もし百三十三歳であれば、すでに六十二歳であり、位上臈にあたり、師よりも十七歳年長ではなはだしく晩学となる。
『孝亮宿禰日次記』によって天文五年生誕、年寿百八歳とするのは、決して私の創意ではない。明治二十年、内閣修史局において史徴墨宝を刊行するにあたって、初めて考証したときから、ほとんど定説となっているものである。私もまた史徴墨宝の説をとって、さらに天海自らの款状の語句に照らし合わせ、法友・弟子の撰述した伝記の文字を引いて、それに間違いがないことを立証した。文学博士吉田東伍氏も、史徴墨宝考証の説をとって、その著『大日本地名辞書』に天海の年寿を百八歳と記している。しかし、博士が、その誕生を『新編会津風土記』からとって天文十七年としているのは、杜撰な話だ。天文十七年から寛永二十年に至る年暦は九十六年に過ぎない。
天海=光秀説の虚妄
最近、一部の考証家において、天海は明智光秀の後身なり。光秀、山崎の一戦に敗れ、巧みに韜晦隠匿して、出家して僧となり、徳川家康に昵近して、深くその帷幕に参し、もって豊臣氏を亡滅し、ひそかに当年の怨を報いた、という奇説を唱道する者がいると聞く。これは要するに、天海の出所が明らかでなく、年寿が定まらないがために、種々の揣摩憶測を生ずるに至ったものである。方処、歳時、年寿の三者が明瞭になれば、異説を生み出したり、ウソでたらめを付会するものはいなくなるだろう。
法諱
また、天海の法諱についても、諸伝が親切でないことが残念である。南光坊の号は山門の執行探題になった後のものであることが一番わかりやすい事実であるが、諸伝はその以前から濫用している。天海の法諱も出家当時のものではない。得度の師は舜幸と称し、修学の師は皇舜と称する。龍興寺は現に世良田長楽寺の末寺であるが、当時果たしてそうであったかどうかは不明である。とすれば、舜幸と皇舜は、師弟の関係にあったのではないかと思えるため、天海の初名が必ず舜の字を称したのではないか、と私はまず考えた。
天海の名は天空海闊の意味に取ったもので、空海のようであったと考えられるが、沙門の名字には別の典拠があって、多くは師家の偏諱を踏襲するのが常である。天海の師事した老僧で、天字を冠した者を探すと、一人もいない。海の字であれば、長楽寺真言院の宣海、無量寿寺北院の豪海がいる。一人は葉上派密印灌頂の師である。一人は台教相承の師である。ともに偏諱を戴くに足といえども、宣海は単に一部相伝の師でしかない。豪海は衣鉢を受け、後住に備わった付法であるから、天海の諱は、おそらく豪海から受けたものであろうと思われる。なぜなら、無量寿寺は、中興尊海僧正から歴代の住持はみな海字を用いて、ほとんど寺伝のごとくなっているからである。実際、『天正日記附考』に以下のような考証がある。
- 又按に進藤夕翁手簡(寄安澹泊)に嘗て天海手書の中臣祓抄を見るに、其奥書に檀那盛重為祈念書之、不動院随風とありと。又不動院なる智証五大尊の裡書にも、医王山法印大和尚随風花押とあり。蓋、天海不動院に在りし頃、別名を随風と云へるなり。是等の逸事に至ては、伝記以下一も挙ぐる所なし、其疎脱あること乃ち如此なり。
これは別名ではなく、天海の前名ではないだろうか。そこで、北院嗣法以前には、随風をもって称することとした。すると、本書再校を了するとき、たまたま日光大黒山慈眼堂天海蔵中について、以下のように手記した手抄本があることを発見し、長沢徳玄師はその写真を示された。よって、わずかに本文に「無心」の別号を補訂し、さらにその写真を掲出することとした。それは次の通りである。
- 随風大和尚
- 菩 提 心 論
- 慶長仁暦丁酉三月一日常州江戸崎
- 不動院法印大和尚随風点之 花押
- 幅陽沙門
- 天 釈 抄 私 記
- 無心 花押
- 随 風 子
- 改 天 海
- 人 天 眼 目 抄
天海は不動院においては随風の称を改めなかったと思われる。北院先住豪海僧正遷化の翌年、すなわち慶長二年に至るまで、依然求償を用いている。人天眼目抄は何年のものか、年代が明らかになれば、随風を改めて天海と称した時期も判明するのだが、それはわからないのが残念である。
しかし、随風の号は長らく別号のように用いられたと思われる節がある。すなわち、妙法院にある手簡のうち、風子の名を用いたものがあるためである。
要するに、天海は始め随風と号し、北院に澄むようになって慣例に従って名を天海と改め、随風をもってその別号としたことは、否定できない史実といえよう。
- 第一編 修学:第一章 瑞夢受胎 - 第二章 龍興入室 - 第三章 負笈振錫 - 第四章 慈母嬰疾 - 第五章 名山歴訪 - 第六章 甲府論席 - 第七章 三教一致 - 第八章 会津没落
- 第二編 行化:第一章 北院嗣法 - 第二章 二星照児 - 第三章 悉地成就 - 第四章 興法利生 - 第五章 僧正拝任 - 第六章 法華大会 - 第七章 星岳興復 - 第八章 信教治国
- 第三編 人師:第一章 一句問答 - 第二章 晃山中興 - 第三章 祖志継紹 - 第四章 血脈相承 - 第五章 国家安康 - 第六章 天日新霽 - 第七章 仙洞伝法
- 第四編 国宝:第一章 駿城急馳 - 第二章 一実神道 - 第三章 晃廟遷座 - 第四章 矜哀救護 - 第五章 七回神忌 - 第六章 座主親王 - 第七章 東叡開基 - 第八章 二條行幸 - 第九章 御製天感 - 第十章 上野台臨 - 第十一章 女帝登極
- 第五編 菩薩:第一章 相国不予 - 第二章 骨肉乖離 - 第三章 山門復旧 - 第四章 照廟改営 - 第五章 神鶴献瑞 - 第六章 仙波炎上 - 第七章 大樹省病 - 第八章 日光門主 - 第九章 宝塔更築 - 第十章 世子生誕 - 第十一章 法宝付属 - 第十二章 大円正覚
- 残編 霊光:第一章 親王東降 - 第二章 諡号宣下 - 第三章 一品法王 - 第四章 玉振余響
- 附録:考異 - 慈眼大師天海大僧正年表