八百長
八百長(やおちょう)は、本気で試合をせずにあえて示し合わせて力を抜いて、勝負の行方を変える行為。特に相撲で問題とされる。現在の八百長では、力士同士の「星の貸し借り」の場合もあるが、賭博と関連しているものもあると推測される。
目次
語源・由来
八百屋の斎藤長吉
明治時代、両国の回向院前に住んでいた八百屋の斎藤長吉こと八百長がこの言葉の由来[1]。伊勢の海五太夫[2]と囲碁を打っていたが、本来長吉は非常に囲碁にすぐれていたにも関わらず、あえて伊勢の海に勝ちを譲った。このことから、試合でごまかして甘く繕うことを「八百長」というようになったという。
明治三十五年の鎗田徳之助『日本相撲伝』では、八百長が碁で手加減していたことを憤った伊勢ノ海がこのことを吹聴し、さらに相撲興行の売買で賄賂を払ったことを「八百長を取られた」と言ったことから、賄賂の隠語として広まっていたと記されている。
新聞での初出は、現在確認した範囲で明治三十一年=1898年(朝日新聞)[3]。八百長こと斎藤長吉が亡くなった記事は1901年(明治三十四年)である。
明治時代の用法
『日本相撲伝』では、「賄賂」の代名詞として使われていたとする。
明治時代の新聞記事における用法としては、「ペテン」と「八百長」が対比的に使われる例が多く見られる。この場合、ペテンとはいわゆる禁手行為に当たるようなズルい手を使うこと、八百長は「わざと真剣に試合をしないで、引き分けあるいは試合を預かりにしてしまう」(試合結果を出さない)こととして使い分けられている。
現在の用法として、「事前に打ち合わせをして勝ち負けを決めておく」ことが八百長とされているが、これは明治時代の用法とは異なることになる。明治時代には、わざと試合をしないで勝ち負けではなくすわけである。
明治時代には、大場所で8勝以上した力士が「負け」を増やさないために引き分けに持ち込もうとして試合を長引かせたことが「八百長」として激しく非難されているのである。
鎗田徳之助『日本相撲伝』
鎗田徳之助『日本相撲伝』1902年(明治三十五年)より「○八百長とは相撲社会に用ゆる賄賂の代名詞なり」の節を、以下、松永英明による現代語訳で掲載。
八百長とは相撲社会で用いる賄賂の代名詞である
この言葉の起こったゆえんを尋ねると、先代伊勢ノ海五太夫(※七代目)が下手の横好きとやらで深く囲碁をたしなみ、ヘボ仲間を集めて囲碁することを老後の楽しみとしていた。
明治初年のころ、日々同家に出入りする青物棒手(あおものぼてい)の八百長という者がいた。この男は囲碁の心得も少しはあるなどほのめかして、暇があれば伊勢の家に来て囲碁の相手をすることがたびたびであった。手合いは互いに先に負けず劣らずという。ちょうどよい碁敵ということで、またとない友として年来ひいきにしていた。
八百長があるときの世間話に、「八百屋渡世も年を取ったら骨の折れる稼業だ。老後の家業として何とかして八百屋ほど骨の折れぬ稼業になりたい」などと話していたところ、伊勢ノ海が手を打って言う。「そりゃちょうど楽な商売がある。今朝聞いた島屋の株(相撲茶屋)が売り物に出たということだ。一年二度の相撲に商売すれば、あとは遊んでいられる。隠居商売にはもってこいである。どうだ、やるきはないか。どうだ。失礼だが金のことならどうでも相談は俺が引き受けてしてやろう」という勧めに従って島屋の株を買い受けて、相撲茶屋となった。そして局長と称して繁盛した。八百長(やおちょう)の島長(しまちょう)も興業が終わってから暇さえあれば伊勢の家に行き、囲碁の相手をしていた。
ところがその後、伊勢ノ海の真向かいの家に碁会所が開業した。伊勢も島長も好きな道ということで暇さえあれば出席する先生について稽古に余念がない。ある日出席した本因坊に島長が稽古を受けている。打ち方を見ると日頃自分と打つ手際とは大いに異なっていた。伊勢は不審にたえず、「長さん、この碁はいくつ置いたか」と聞くと、「五目ですよ」と答える。伊勢は心の中で目算して、憤然として自宅に帰り、家内の人々に向かって、「あの八百長の野郎め、年ごろ俺を馬鹿にしておった。あの八百長の野郎が今向こうの碁会所で本因坊先生と打っているところを見ると、あの先生は九段を打つ先生だ。その先生に五目置いて打てば初段くらいは大丈夫打てるくせに、今日まで俺を馬鹿にしておった。あの嘘打ち野郎目」と怒る。このことは仲間中の人々はもちろん、得意先の旦那衆へも腹立ち紛れに吹聴したため、このことはたちまち仲間中の評判となった。伊勢ノ海の無邪気なのを誉める人もあり、また笑う人もあった。
それ以来、各地方から相撲買い入れのため上京する人々の売り買い値段を定め、その中から出京入費などと言って売り手の伊勢から収賄していたのだが、このことを伊勢が仲間の年寄どもに向かって「どこそこへ打った値段はかなりであるが、いくらの八百長を取られたからうまい割にもゆかぬ」とあたかも賄賂の代名詞のように使ったことから、この言葉が広がった。今は日本国中相撲に関係する人々で、八百長の語が賄賂の代名詞であるということを知らない人はいないという。
鍵富寿吉『相撲読本』に挙げられた八百長相撲の実例
昭和十七年刊行の鍵富寿吉『相撲読本』の「八百長」の節にいくつかの八百長相撲の実例が挙げられているので、要約して列挙する。
- 江戸時代の大横綱・谷風の話。佐野山という弱い力士がいたが、家は貧乏で親孝行だと谷風は知っていた。そこで、ある年の湯島天神の相撲興行の際、わざと佐野山に負けてやった。そこで集まった投纏頭(なげはな)が600両余りで大成金になった。佐野山は感激して力士をやめて故郷大坂へ帰り、佐野屋権平という米屋を始めて成功したという。
- 浄瑠璃『関取千両幟』では、猪名川が鉄ヶ嶽に負ける八百長相撲をしろと強要されるが、八百長をせずに正々堂々と勝負する(その裏で猪名川の妻が自ら遊女になって賞金をこしらえていた)という話である。これは当時の実在の力士の稲川と千田川の勝負をもとに作られた架空の話である。実際には人気のあった稲川があっさり千田川に負け、稲川がわざと負けたと噂になった。
- 明治四十三年六月場所の十日目、東の関脇・朝潮(後の高砂浦五郎)と西の張出大関・国見山との対戦。国見山が右膝を脱臼したことに気づいた朝潮が、その隙に乗じて勝ちを取るのは潔くないと考え、国見山の体を支えていた。それに気づいた行司が「水だ」と声を掛け、一旦水入りとなった。その後取り直しとなったが、国見山も強気に出られず、ついに引き分けとなったという。
- 国技館の出来た翌年の明治四十三年、新進の太刀山が駒ヶ嶽とともに人気があった。二人の対戦となったとき、預かりとしようという約束で土俵に上がった。打ち合わせ通り土俵際で同時に落ちようとしたところ、太刀の体が少し早く着いてしまい、駒ヶ嶽に軍配が上がった。その後物言いの結果、太刀が半星、駒に丸星ということになった。
- 大正初年、大阪で東西大合併の相撲が行なわれた際、常勝将軍・太刀山が大阪の横綱・大木戸との一番に破れた。これは、太刀山がふんどしをつり上げようとしたところ、大木戸のふんどしがゆるんで肩まで持ち上がってしまった。うっかり離せば股間が出てしまうので困っていると、その隙に大木戸ががぶり寄り、寄り出しで勝ちを収めた。
- 大正初年ごろの大阪には小若島と小染川という花形力士がいた。ひいき客が「どちらも負かしたくない」というので、お客同士が八百長談を成立させ、両力士に伝えてどちらも負けないように八百長相撲を取れと伝えた。客が言うのでいつも分か預りを続けていたのだが、一般の観客もそれを喜んで満足していたという。
八百長の隠語
八百長を指す隠語として、同書に挙げられているのが「桟敷下」(桟敷の下の支度部屋で了解を得ることから)「今日は」「解った」「飴入り」「北海道」「手が合った」「親父」(ヤヲの逆読みでヲヤ)。
新聞記事
1898:新聞記事初出
1898年(明治三十一年)2月5日朝日新聞
怒上戸曰く (前略)それから業が沸て/\馬鹿馬鹿しくつて堪らないのは花相撲だ大場所は格別だけれど抑々花相撲と位が下れば肝腎の眼ざす幕内力士等めがグデン/\に酔ぱらつて土俵へ出(いで)くさる龍虎相闘ふといふ風が見えなければ観客に充分力瘤の入るものではないとは明かにわかつてゐるのに渠等は相対すればニコニコと笑ふ其上また勝負に頓着せず恰も小児が戯れるやうに巫山戯てばかりゐて少しく可厭になると故意(わざ)と倒れて敵に勝たせる或は差引が悪ひと思へば八百長(申合せ勝負の符牒)にして預りとか分(わけ)にして了(しま)ふといふ弊習が募つてきた何と悪むべき限りでない乎可哀さうなは観客で銭を出汁ながら馬鹿にされに行くのだ
※現時点での新聞記事への「八百長」の言葉の初出。これは大場所ではなく「花相撲(ご祝儀相撲)」でのことであるが、「わざと倒れて敵に勝たせる」という今の意味の八百長とは別に、対比する形で「差引が悪いと思えば八百長(申し合わせ勝負の符牒)にして、預かりとか分(わけ)にしてしまう」という悪習が述べられている。
1901:八百屋斎藤長吉の死亡記事
1901年(明治三十四年)10月4日讀賣新聞
●相撲社会の名物男死す
東京相撲社会で有名な八百長事斎藤長吉(七十一年)は一昨日午後南葛飾郡(ごほり)寺島村の縁者を訪ね同家の門口で車から下りる時ウント一声叫んだまま死去した、同人は以前呼出しであつて後太鼓の方に廻されたが太鼓は朝が早いので大儀だとて近年木戸の方に替つて余暇ある時は二期大場所の土俵を仲間なる新宿の千代吉と両人して製造するのが勤だ、同人は元回向院前に住居して八百屋を営みし故同社会で単に八百長と呼来つた、八百長の囲碁は初段に五六目位を打ち先代伊勢の海五太夫より四五目は大丈夫上手なのであるが両人勝負を争ふ時は互ひ先で伊勢の海へ勝を譲るので伊勢海は実地勝利を心得て居る、其処で同業社会では其場を胡魔化し甘く繕ふ事を八百長と言て居る、近年は回向院内の水茶屋島屋と呼ぶが住宅(すまひ)であつたが先頃新宿千代吉が死亡(しきょ)したので八百長は非常に落胆(がつかり)して居たから千代が淋しがつて迎ひに来たのであらうと年寄九重は真面目で話した
※八百屋の斎藤長吉が明治三十四年に七十一歳(数え)で亡くなったという記事。もともと回向院に住んで八百屋を営んでいたために八百長と呼ばれるようになった。
八百長の囲碁は初段に五六目くらいを打つ実力で、先代伊勢の海(七代目)よりも四五目くらいの上手なのだが、この二人が勝負を争うときは伊勢の海へ勝ちを譲ってしまうため、伊勢の海は結局勝利を得ている。そのため、相撲の世界ではその場をごまかし、甘く繕うことを八百長というようになった。
長吉は以前「呼出し」から太鼓の方に回されたが、太鼓は朝が早いのでたいへんだと言って、近年は木戸の方に変わっていた。そして暇があるときには二期大場所土俵を、仲間の新宿の千代吉と二人で作るのがつとめであった。近年は回向院内の水茶屋島屋というところに住んでいた。
ところが、一昨日(十月二日)午後、南葛飾郡寺島村(今の墨田区東向島)の親戚を訪ね、同家の門口で車を降りるときに「ウーン」と一声叫んだまま死去した。先頃に新宿千代吉が死亡したために八百長は非常に落胆していたという。「千代が寂しがって迎えに来たのであろう」と年寄の九重が真剣な顔で語ったという。
1901年の八百長死亡記事以前に新聞では「八百長」の言葉が使われている。一方、七代伊勢ノ海が亡くなったのが1886年。現時点で確認できた「八百長」の新聞での初出が1898年であり、先代伊勢ノ海が亡くなってからこの言葉が広まったと考えられる。
1902:八百長対策
1902年(明治三十五年)1月29日讀賣新聞
●相撲だより ◎地方興行の改良 東京相撲が地方興行に対する勝負に付ては近来八百長とか又は纏頭(はな)付なり抔(など)の風説あるより協会は大に苦慮する処あり一昨夜協議の末大坂及び京都興業は本場所同様給金を上げ且つ各地方興業も取締検査役等に於て厳密に其成績を取調べ置き大場所番附の席順昇降に加ふる事に定めたり
※八百長、纏頭付が行なわれているという「風説」があるので、給金を上げる一方で取締を強化するという記事。纏頭付とはご祝儀・チップつきということで、まじめに試合をしない相撲が問題視されていたことは今も昔も変わらない。
1907:角力道の今昔
1907年(明治四十年)5月17日朝日新聞
●角力道の今昔 五十四年勤続年寄の談
相撲年寄中の高齢者花籠平五郎(七十年)が相撲についての今昔談は好角家に取り最も興味を感ずるものなれば左に紹介す(中略)
▲八百長 昔は先ず無いと云つても可い位です、私が若者頭の時今の年寄太刀山安蔵が八百長角力を取つたので私が頭を撲(くら)はした事がありますが今でも顔を見ると気の毒な感が起ります、玉垣は八百長角力を取るものは破門すると厳しく言い渡た位ですから今の様な事は滅多にありません。
※何度も名前のである太刀山が八百長相撲をとっていたという証言。
1908:帝国議会での発言に「八百長」の語
1908年(明治四十一年)1月29日讀賣新聞
議院雑観 (前略)▲望月君が演壇に立つて愈々質問演説に取掛る前口上として「諸君本員が今茲に我が外交の失策を鳴して誠心誠意之を攻撃するに誰か予を以て八百長演説をするものと云ぞ」とやつたときは傍聴席に哄笑の声が起こつた(後略)
- 明治四十一年一月二十九日 第二十四回帝国議会衆議院本会議
〔望月小太郎君登壇〕
○望月小太郎君 諸君、事苟モ外国ニ関係致シマシタル重大問題ニ関シマシテハ、成ルベク精密ニ、仔細ニ、彼我当局者間交渉ノ実際ヲ調査致シマシテ、其賛クベキハ之を助ケ、其譴ムベキハ之ヲ責メ、而モ或係争問題ニ対シマシテハ之ニ仮スニ一定ノ時日ヲ以テシ、而シテ後、断案ヲスル、之ヲシモ猶且八百長演説ト云フナラバ本員ハ敢テ言ハン、凡ソ外交質問ノ最上式ハ八百長ナラザルベカラズ、定九郎ガ与市兵衛ヲビックリ仰天セシムルガ如キ暗打演説ハ国家ニ忠良ナル代議士ノ断ジテ避ケナケレバナラヌコトデアルト、本員ハ斯様ナル信念ヲ有ッテ居ルノデアリマス、此信念ヲ有スルニモ拘ラズ、而モ本員ガ茲ニ質問セント欲スル移民問題並ニ対清問題ニ対シマシテ当局ノ経過ヲ見マスレバ、本員ハ遺憾ナガラ冒頭第一ニ我現当局者ノ外交政策ハ遅鈍ナリ、緩慢ナリ放縦ナリト云フコトノ疑ヲ抱クモノデアル、(後略)
※帝国議会衆議院の本会議において、望月小太郎議員(山梨県選出)が、外交上の失策についてはきちんと批判攻撃しているのに「八百長」などと言われるのは心外だ、ということを冒頭に述べたもの。
1909:国技館落成
1909年(明治四十二年)2月8日讀賣新聞
三面時事 丿乀子 (前略)
▲相撲 常設館落成と共に協会内部に大改革を断行し年寄力士の品位を向上し武士道の精華を発揮すと遅蒔も蒔かぬに優る▲改正規則に云幕内力士は十日間全勤(まるづとめ)の事、取組は従来(これまで)の方法を捨てて随時適当に定む、一場所毎に双方の星数を調べ勝越しへ優勝旗と賞金を与へ東西を転換すと▲八百長の弊風地を払て去り初日より横綱同士の顔合わせを見る事も出来る好角家の満足思ふ可し▲其他地方巡業中の汽車汽船は横綱大関一等幕の内二等、旅行中は筒袖等野卑な風采を為す可からず、場所入の際は角帯又は縮兵児に限るなんど珍規程もあり
※相撲が国技とみなされるようになったのは1909年の国技館(ここでいう「常設館」)建設以降のことである。このとき、相撲の興行の「改良」(改善)が試みられていた。この記事の内容を裏返せば、「八百長の弊風」がそれまでは存在していたということにもなる。
1910:板垣退助が八百長対策に乗り出す
1910年(明治四十三年)1月24日讀賣新聞
▲太刀 対駒嶽常陸対太刀皆八百長で終る日比谷館の晴場所之れに学ぶ者無き乎
1910年(明治四十三年)1月29日朝日新聞
●板垣伯の角力訓誡
板垣伯は近来相撲道の甚だしく不真面目に陥りつヽあるを慨し一昨日左記の契約書を草して之を携へ友綱方に趣き同部屋力士なる太刀山、国見山、鳳、伊勢ノ浜、鏡川、黒瀬川、上ケ汐、土州山及び有明、柏山、柏戸、滝ノ音、太刀勇、能代潟等を一堂に集めて訓示する所ありたり
契約書
力士たる者は其本分を守り相撲道の弊風を矯正する事
土俵上の勝負は神聖に決すべく苟くも私情に渉り情実に流れ見苦しき行動は為さヾる事
以上の精神に基き部下の養成に努め斯道を奨励し理想的発展の目的を達する事右の契約は天地神明に誓ひ必ず違反有間敷仍而一同証明捺印するもの也
明治四十三年一月廿七日
1910年(明治四十三年)1月30日讀賣新聞
●板垣伯の八百長 去廿六日板垣退助伯が友綱部屋で太刀山、国見山以下を集めて八百長相撲を攻撃して一場の訓示演説を為し太刀山以下は今後一切八百長はやらぬと云ふ証書を書た訓示は兎に角証書はチト臭いなと思つて居ると其実今場所打上後八百長に就て八方より攻撃を受け殊に退隠する筈の国見山を或る関係から登場させたりして大相撲が徹頭徹尾八百長に終つたと奮慨した者すらあるので是では次場所の人気にも関すと遂に老伯爵を煩はして訓示演説及誓の証書となつたのだと素破抜く者がある八百長訓示などは愈々以て馬鹿にしてテ居る処が少々早まつて東方に相談に及ばなかつたので目下東西重訳の間に衝突を起して居ると
※板垣退助が、八百長で問題になった太刀山・国見山らの力士に対して、八百長をするなと訓示し、さらに八百長をやらぬという証書を書かせたという。八百長問題が非難を浴びる中、引退するはずだった国見山が結局出場したりしたためにさらに騒動が大きくなり、次場所に影響するようになったので老伯爵にお願いして訓示・証書という次第になったのだという。
1910年(明治四十三年)4月1日讀賣新聞
●隣の噂
東汽社長の浅野君は昨日の総会席上或株主に先づ留任希望を述べさせておいて、偖(さて)一咳之に答ての曰くが面白いテ、私は何も好んで辞するのでは無いのです、唯申訳の為に辞表を出した次第でとやつたので、此時田町の御殿有りと叫んだ者が在つた▲次で猛然起立したのは古手川豊次郎君だ、先生何を云ふのかと思ふと余の持株は兄弟親族の分を合し一千株以上だ抔とトテツも無い事を云つて一同を吹出させたは好いが▲浅野たる者常に広原を以て株主を瞞着し来り今将(はた)何の面目在て吾人の前に立つを得る乎真に会社の為に尽さん意思あらば先其横着なる放言を止めて誠心職に尽瘁する所あれとやつたときは浅野君の額がギラ/\電灯に反射した▲併し焉ぞ知らん此雄弁家も矢張り八百屋の長さんぢゃッたゲナ▲一体此の日は作戦計画が齟齬した者と見え山中監査役が原六郎氏も辞表を出せりとは真乎と突込んだので浅野君一寸面喰らつたが態とらしく左右に質した上高声に「然り、実は取締役中御免を蒙りたがる人が多いので」と聊か狼狽の気味だつた▲傍らの角力通曰くサ国技館なら八百崩と云ふ処だネ
※東洋汽船の株主総会の進行がヤラセ的な流れであったことを揶揄する記事。質問者が実は事前に打ち合わせていたということで「この雄弁家もやはり八百屋のちょうさんじゃったげな」と茶化している。また、八百長がうまく行かなかったことについて、相撲通が「国技館なら八百崩というところだね」と述べている。相撲では八百長が失敗することを八百崩(やおくずれ)と呼んでいたことがわかる。
1910年(明治四十三年)5月12日讀賣新聞
●角界雑俎
▲分預星(わけあづかりほし)の処分法 十五日公表すべく八百長の相撲は仮令ひ勝負ありとも相当の厳罰を与ふるやうなるべし
1910年(明治四十三年)6月14日朝日新聞
●角觝評話(十日目)
猪口才なる八百長
二段目や十両取の分際にて、星勘定の結果、猪口才なる八百長政略は、小腹の立つこと夥多し、二段目や十両取は邁進敢行の勇無かるべからず、徒らに星を計算し、昇級進歩を土台にして、角力を取るべき時にあらず、たヾ猪勇を振つて突進し、遮二無二敵を殪すに腐心すべき也、彼等の目的は星にあらず、進級にあらず、たヾ相手を打倒すにあり、而して星を取り進級するは第二の事柄なり、若武者の戦場に臨むは千貫万貫の賞禄を目的とするものにあらず、花々しき一戦して、名ある武士の首級を得んが為め也、角觝道の若武者たる二段目十両の力士も此心掛なかるべからず、小錦、荒岩、梅ケ谷、常陸山等名力士の売出し時代を見よ、勝負は別問題として立合を重んじ、只偏に花々しき働きを為さんと期せり、然るに今の新進等は星の計算に頭を使ひて、八日、九日、十日頃となれば、所謂帳場相撲を取る事、一見嘔吐を催さしむ、有望力士槙ノ島と浦ノ浜との立合に、此八百長を見るに至りしは、彼等の前後思ふに付けて、転た憤慨に堪へざるものあり、槙も浦も共に新進の若武者、今よりして勘定相撲の八百長は猪口才といはずしてそも何ぞ、今日は力士よりも見物が見巧者となって、土俵ギハのジワ/\投げ、同体の丸預(づぶ)位は先様御承知の次第也、人をツケ馬鹿にすべからず
負無しとは無意味也
力士が議論家となりて、溜の苦情が帝国議会の名論卓説よりも更に事面倒なるに至つては、木戸銭を払つて見物する好角家は、お情けで入れてもらふ傍聴人よりも一層惨めの事也、溜の苦情も程度問題也、屁理屈をこねかへして、お客様を悩ます程に、強情を張るべき理由無し、四本柱の検査役と行司との見解に依つて、夫に道理あるものとせば、いヽ加減に承服するが男ならずや、今日の土俵に近江富士と明石龍との一番、近江の上手投げを明石下手に打ち返して、充分勝利の相撲なるに、東溜の大ノ川が苦情に依て、約四十分位の時間を空費せり、当時は検査役も行司も、西の勝ち星を認めしを、大ノの強情に依つて、結局西方の星、東方負無しと極まる、そも/\負無しといふ理屈が、勝負を主眼とする相撲道に存在すべき道理か、半星を協会が持出すとなれば、東方は協会を言負かしたる事となる、相撲が議論で勝つたりとてそも何の誉かある、馬鹿もこれ程に増長すれば世話なし也、畢竟優勝旗などいふ厄介者あつて、星勘定をする為めに、無学極まる力士等が、非論理の理屈をさへ主張するなり、今日大ノの駄苦情は吾人甚だ之を憎む
1910年(明治四十三年)6月15日朝日新聞
●相撲と競技(上)
▽何しろ時代後れだ
▽競技としての欠点
本社の相撲評話子は夏場所九日目の角觝評話で
- 力士が武士に軽んぜられて、帯刀御免の取扱を受けしは当時角觝道の意気武士の意気に譲らざりしが為にして、今日の如く客に媚び芸者に狎れ、大道芸人と大差なき堕落を示すに至りては力士の名目甚だ副はず、これより改めて力師となすべし、力師の師は奇術師の師なり、軽業師の師なり、これ今日の相撲に恰好のの名目だ
と罵つた。至極尤もな罵り方だ。併し此の罵り方は畢竟我が好角家が従来角觝を買被つて居た故で、今更悔やんだつて詮方がねえ。試みに思へだ。多寡が知れたお角觝の事ぢやねえが。芸人共の勝負事に然う肩を入れて堪まるもんか。社会は進歩して居るぞ。野見宿禰、当麻蹴速時代のものを今更引つ張り出して、楽まうなんて云ふのが、抑の間違ひだ。角觝自身は此後如何に進化(エボリュート)してもだ、昔の軍談に所謂『遠き者は音にも聞けよ、近くば寄つて目にも見よ我こそは△△家譜代の臣、何とか、何(か)とか、何とか』と名乗を揚げて夫から悠々と身繕をしながら渡り合ふと云ふ一騎打の戦争ごつこの外に出ねえ。ソンナ手ぬるい戦争ごつこが今日の文明世界にあつて堪るもんかい。戦争は今日までに非常に進化(エボリュート)して来た。普仏戦争以来の戦争の進化は常に大したものだ。日清戦争、日露戦争以来の進化に至つては特に著しいものである。勝負事も戦争のやうに斯う進化してこそ実に面白い。処が角觝になると一向にコンナ進化の跡がねえ。四十八手は依然として四十八手だ。其の間に統一もなければ、分化もねえ。文明国の人間はソンナ暢気なものを見て居る暇があつて堪るかい。
何によらず、一体勝負事と云ふものは之によつて、公明正大の気を養ひ、兼ねて又協同、犠牲の念を養ひ得るから尊くて而して面白いのだ。相撲は遣方一つでは或は之によつて公明正大の念を養ひ得られるかも知んねえが、協同、犠牲の念を養ふの点に至つては、カラキシ駄目だ。夫は庭球や野球のやうに一致協同して敵に当ると云ふ競技ではなくて、所謂一騎打の旧式な競技だからだ。文明国に行はれる競技でありて当麻蹴速時代の競技だからだ。
………論じ来るとだ、然らば競技の誠心とは如何なるものかと云ふ問題が起こつて来るので、俺等は今姑く英国紳士訓練法の一なる英国競技の誠心について少しく講釈をせねばなるまい。
英国の競技中で最も注意すべきものは前にも云つた通り公明正大なることを要すと云ふにある。
英国では此精神が実際生活にまで漲つて居る。若し公共生活を営むものにしてこの精神に欠けて居れば『ゲームをやる資格がない』と云つて社会から斥けられる競技を審判するアンパアイアにあつても亦然りだ。其審判は人をして誤判なりと思はしめるやうな曖昧なものであつてはならぬ。従つて英国の青年は平生から其の審判官の公明なる態度を信じて、一言の異議を差し挟まぬ慣習を養成して居る。此の如き慣習の養成は、他日青年が学校を出で、愈社会の人となつたとき、特に下院議員となつた折に、異議なく議長の言に服するの準備となることが多いと云ふ。だから英国では、苟も公人となつて如何に其事務を処理すべきかを知らんと欲せば、先づ大中学の青年と一緒に競技界の人となつて此精神を修養することが必要だとしてある。競技もコンナ風に直に人生に応用せられ、又応用せらるべくして初めて文明国の競技と云ふべきだ。物言ひの沢山ある相撲などで夢にもコンナ精神が修養できるもんかい(べらんめえ)
1910年(明治四十三年)6月16日朝日新聞
●角觝と競技(下)
▽国民道徳の賊なり
▽速に角力を滅ぼせ
何だと、相撲が元気を鼓舞すると。嘘を云へ、此の頃のやうな八百長ばかりの角觝が元気を鼓舞するなんてえことがあるもんか。病気をかこつけに休場ばかりして居る相撲が元気を鼓舞するッ、笑はせあがるな。一体角觝は前にも云つた通り、多寡が知れた一騎打の戦争ごつこぢやねえか。よしんば之によつて元気が鼓舞されるにもせよだ、其元気は一騎打の元気に過ねえ。一騎打の元気は、今日のやうな文明な世界の中に在つては害こそあれ益はねえ。此種の元気は社会の秩序をこそ紊乱せ、其進歩には少しも貢献する所がねえ。個人の勇気元気などはずつと昔の元始時代の事さ。相倚り相助けて以て共同生活を営んで行く今日の世の中では、ソンナつまらねえ元気などはなくても、協同、犠牲の念が第一の必要だ。勇気とか、元気とかを基にして居る角觝にコンナ文明的の道徳が含まれて居ねえのは無理もねえ事つた。
処が、一体競技てえものは右の協同、犠牲の念を養成し得るものでなくては、真正の競技とは云はれねえ。自分達よりも勝れて熟練な競技者が居れば、自分達は寧ろ退いても其地位を優者に譲るのが競技の理想だ。此点から見れば角觝には若年寄が多くなればなるほど、夫ほど理想に近い競技が見られる訳だ。張出大関が幾人もあるやうでは力士の間に角觝道発達の為に自己を犠牲にするの念がねえと云つても答弁が出来めえ。コンナ事で角觝道の繁盛を祈るは桃の中に石を求めるやうなものだ。若し夫れ協同の念に至つては、如上角觝は所謂一騎打の戦争であるから、協同の念を起さうとしたつて起せやう筈がねえ。此頃になつて優勝旗の授受など云ふことを考へ出したので、幾分か協同と云ふ念も各力士の頭の中に浮かぶやうになつたかも知んねえが、其協同は一時に働く協同ではなくて、時を異にした単独行為であるから、東西の各力士が互に呼吸を呑み込んでの協同ではねえ。所謂加算的の協同で、乗算的の協同ではねえ。コンナ協同は今日の世界に必要がねえ。此点に至つては角觝の野球や庭球に及ばざること遠しと云ふべしだ。野球や庭球も米国のやうに商売にする者が出てきては閉口だが、さもなくば、一日も早くこれを以て角觝に代へたいものだ。文明の世の真中に立つて活動せんとするものが、当麻蹴速時代の競技などに現(うつつ)を抜かして居て堪るもんか。
凡そ一国の競技は其国の文野を示すの標準である。角觝のやうな野蛮時代の遺物に現を抜かすやうな国民が、平素の共同生活に於て、人の虚に乗じて一騎がけの功名に誇らんとするのは敢て不思議でねえ。日本人は昔から如何な事業をしても協同の念に乏しい。犠牲の念などは薬にしたくてもねえ。戦争になれば、夫こそ協同もするし、犠牲となるとも辞さねえが、日常の平和事業に在つては、互に相欺き相陥れ、自分一人が可(い)い子にならうとするの傾きがある何と嘆かはしい次第ではねえか。戦争は社会の異常の状態で、平和は社会の普通の状態だ。異常の折の道徳を以て普通の折の人民の行為を律せんとするのは、見当違も甚だしい、べらんめえ無学なりと雖も、豈に漫漫然として相撲を罵しるものならんやだ平時に於る国民道徳養成の点から観て、角觝の如き野蛮な競技は一日も早く社会より駆逐したいと思ふのだ。角觝は堂々たる国技館などで取らしめるものではねえ、矢張り回向院の小屋がけで沢山だ。分不相応なことをすると何によらず物は衰微するものだ。如何だい、今度の場所のざまつたら(べらんめえ)
1911:八百長おさまらず
1911年(明治四十四年)2月14日讀賣新聞
◎国技館大相撲八日目
▲八日目雑観
△困つた八百長沢山 本場所も取り進むで八日目となると好成績なものはお互に顔が合ても勘定角力から偶意的の八百長をやる幕下で先づ目についたのが雲の峰に真龍、玉の川に輪飾、幕内で老巧両国と新進の八甲山、元気の鶴渡りと綾浪、共に土俵の真ン中で動か無いで引分けに終つた鶴渡りの前身が八百屋の清さんなので八百長じゃ無い八百清だなどと駄洒落なら見物一同が斯様な角力には不平/\
※八百長が目についたという記事で、その八百長の内容はいずれも「土俵の真ん中で動かないで引き分けに終わった」とされている。この節の直前には、(板垣から八百長を諫められた)太刀山が「ペテン」を行なったという文章が書かれており、現在の八百長の意味(裏で事前に決めておいた勝ち負けに従って試合をする)とは大きく異なっていたことがわかる。
注
- ↑ ただし「語源由来辞典」やウィキペディアでは「八百屋の長兵衛」とされている。長吉の出典は明治三十四年十月四日付の讀賣新聞記事。いずれが正しいかは継続調査の必要あり。
- ↑ wikipedia:伊勢ノ海では「なお、八百長の語源は、八百屋の長兵衛と初代伊勢ノ海である伊勢ノ海五太夫との囲碁勝負で、長兵衛がわざと囲碁で負けたことに由来する。」と書かれている。しかし、同ページにて初代は襲名期間記載なし、二代目の襲名期間が「1774年10月-1782年2月」とされている。八百屋の長吉が数え71歳で亡くなったのが1901年とすれば1831年生まれということになり、すでに亡くなっているはずの初代伊勢ノ海がこの八百長と囲碁対戦することはあり得ない。記事中では「先代」と書かれている。1901年時点での伊勢ノ海は八代であるから、1886年3月に亡くなった七代伊勢ノ海(柏戸宗五郎)が「八百長」囲碁の対局者ということになる。
- ↑ 読売の歴史データベースにおいて「八百長」と検索すると1891年の記事なども引っかかるが、実際に記事を確認すると「八百長」という言葉が使われているわけではない。今でいう八百長にあたる不正行為が行なわれたという記事である。つまり、データベースで検索の便宜として、八百長に該当する内容を報じた記事にキーワード「八百長」が付けられている。この点、言葉自体の出典としては使えないので注意。