大僧正天海1-03
『大僧正天海』第一編 修学 第三章 負笈振錫 の全文現代語訳である(松永英明訳)。本文中、(※)での注記ならびに脚注は訳注である。
大僧正天海 第一編 修学
第三章 負笈振錫
下野国河内郡宇都宮(現在の栃木県宇都宮市)の府城、明神山の西に池上というところがある。ここに安楽山粉河寺といって千手観音を安置するお寺があった[1]。
下野国の守護である宇都宮下野守氏綱が南朝の建徳元年・北朝の応安三年(1370)に細川頼之の下知によって、紀州の宮方を攻めたが、紀州の軍は強く、宇都宮勢は戦いに敗れ、氏綱は粉河寺に立てこもった。これが夏五月のことである。粉河寺は、奈良時代に光仁天皇の勅を奉じて宝亀元年(770)に創建された古刹であって、本尊・観自在菩薩の御利益は無辺であり、参詣する老若、遠近の信徒が時間を問わず集まる霊場である。氏綱は深く観世音菩薩に帰依して、朝夕妙智力をあおいだが、その効があったのか、畠山勢と一緒になって紀州勢に当たったところ、南朝軍は敗れて潰走した。氏綱は再び粉河寺に入って、仏恩報尽の供養を営んだ。だが、身に病を得て、秋七月五日に亡くなり、南齢菴祥綱と号した。このため、南朝の弘和二年・北朝の永徳二年(1382)、紀州粉河から千手観世音を勧請し、あらたに下野の粉河寺を建立したのである。
このように由緒のあるお寺なので、領主の崇信は浅からず、圭田を与え、寺禄を給して、天下国家の無事泰平、万民百姓の息災延命を祈らせた。特に今の住職である皇舜(こうしゅん)権僧正という人は、仏門の明星、法界の逸材と讃えられて、道徳は近国に響き、智学は遠境にとどろく、当代の大善知識であった。皇沢・仏化(天皇のめぐみと仏教の教え)ともにうとい関東の辺土にあって、広く雲衲(うんのう=僧侶。衲は僧衣)を導き、あまねく群盲を済度するため、名声は風の林をわたるごとくあちこちに伝わっていたので、徳を慕い、風を望んで門下にやってくる者が数え切れないほどであった。関東の天台宗はここを源としている状態だったので、随風もまた国を出るとすぐに粉河の学寮に錫をかけることとなった。天文十八年(1549)十二月、まさに年末のことであった。
ひとたび学寮に入ってみると、僧侶たちが雲のように集まり、学僧が林のように連なり、東西のことばが錯綜して、およそ海内六十余州の仏弟子がことごとくここに会するかと思われた。朝夕の勤行も極めて厳粛で、ときに応じての講席も極めてうやうやしいものであった。聞きしにまさる学寮のすばらしさに、随風はひとえに良い師を選び得たことを喜び、今ようやく修行の門に入った心地がして、体の躍るような気持ちになり、会津に帰る人に託して母親に第一の消息を送った。
この学寮に入ってから、随風はまたお坊ちゃまとして扱われることなく、一人の法を学ぶ沙門として、他の僧たちと同じ取り扱いを受けることとなった。また、日本国のあらゆる国から集ってきた僧たちと行き来したので、見聞もおのずから開け、進境もあらたに別天地へと入り、経論を極め、章疏をさぐるにも、見地の高く広いことを感じた。
そこにいること一年半で、随風の学行はおどろくほどに発達した。十六歳の秋のころであろうか、初めて論議の席に列することを許され、よろこんで出頭した。上首はこの雛僧の学力を試みようと思ったのか、推薦して質問者とした。回答者には寮中第一の記憶力と雄弁できこえた壮齢の学生が当たったが、随風は少しもひるまず、泰然として問者の席についた。しかも難問が意表をついて出たため答者はしばしば回答に苦しみ、弁舌はまた等々として少しもよどむことなく、難詰はすべて典故によっており、博覧強記、人に舌を巻いて感心させることとなった。
この日、皇舜僧正は外にいたが、帰ってきて寺に近づくと、今や論席のなかばと思われ、問者の声が遠く響くのを耳にした。僧正はよろこんで寺に入り、上首を招いて「今日の問者は誰か」と問うた。「沙弥・随風でございます」と答えると、僧正は大いに驚いて、僧たちに告げた。「声音が雅麗で、窕々(しなやか)として遠く響く者は、これは越格の吉兆である。随風は若いけれども、たしかにわが道の棟梁となるべき名器である」と。
明くる天文二十一年(1551)二月のころ、またもや笈を背にして、飄然として粉河寺の門を出て、身を雲水の往来にまかせ、巨林老材をたずねながら、関東の名緇(名僧)を歴訪し、こちらに二月、あちらに三月ととどまって提撕(教え)を受けつつ、行きいきて近江の坂本にたどりついた。
ここは天台宗の宗祖・伝教大師(最澄)の発祥の地であるので、至る所の旧跡を巡礼し、初めて比叡山にのぼり、根本中堂に詣でることができた。三塔の学匠は人が乏しいわけではないが、檀那流の宗匠として、覚運僧正の嫡統として学識・徳行が一山に冠たる人物は、神蔵寺[2]の実全上人であると聞き、至ってその室に投じた。ときに天文二十二年(1552)正月、随風十八歳の春であった。
この山は開祖大師が苦修の霊地であって、自ら愚中の極愚、狂中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄、上は諸仏に遺し、中は皇法に背き、下は孝礼を欠いていたとして、一大誓願を発起され、一山を開いて大乗の道場とし、おごそかに山家学生の式を定められた一千年の学寮である。そのため、世が降り、人が劣って、山門の学風が衰えたとはいっても、遺風はなお三塔に残っており、三千の学徒は今も一世をおおう観があった。随風はこの聖域に来て、ここの学生と交わり、苦修練行のおもいが根底から振るい起こった。私は道心が薄くて、よく行いよく言うような国宝となることはできなくても、どうして国賊になれようか。得難くして移りやすいのは人の身体である。発しがたくて忘れやすいのは善心である。遊魂はとどめがたい。寸時もむだにすべきではない。生きているときに善をなさずして、死んだ日に地獄の薪となるようなことがあればどれほど口惜しかろう、と、心身を挙げて修学にゆだねた。
実全上人もその大器に感じて、『摩訶止観』『金剛錍』『十不二門』の諸書を授け、最も心を傾けて啓発誘導したところ、随風もすみやかに大意を了解することができた。それだけでなく、およそ法智所の立陰観、別理、六即、蛣蜣、理毒、性具などの文に精究し、恩情の兼業、昭円の異説、齋潤の党邪、仁嶽の背正に至るまで、みなその是非を察した。
ここにおいて、上人ははなはだ才能を認めるあまり、突然、試問を発して、三千三諦とは何かと問うた。声に応じて答えるには、「一念無性、空性万有、仮空融絶、これを三諦という。三諦三千、当念本具、本具を了達すれば、彼此宛然たり」と。
上人は手を打って感歎し、たちどころに覚運僧正から面々として伝来した玄旨灌頂、十個の相承、帰命檀七通の印信、すべて付属し終わった。これは随風が二十歳の冬であって、弘治元年(1555)十月のことであった。
随風はすでに檀那流の印可を得、また登壇して円頓菩薩の大戒を受けたので、一旦山を下って、三井の園城寺[3]に移った。寺門にあっては、智証流の法門のみならず、勧学院の権僧正・尊実につき、もっぱら倶舎論の性相などを学び、深く天親(世親=ヴァスバンドゥ)の精粋を含み、あくまで円揮の芳韮を噛み、家伝のよるところにもとづいて、華厳・楞厳の諸法大乗を学んだ。これは志を多岐の法門に馳せたようであるが、かえって観を一家の要道にこらし、見聞覚知、すべて心に家を興すことを捨てなかったのである。
参照・注記
南方紀伝、宇都宮譜、下野国誌、叡山大師伝、山家式、仏教大年表、仏家人名辞書、東源記、諶泰記、大師縁起、日光山列祖伝、本朝高僧伝、東国高僧伝
- 第一編 修学:第一章 瑞夢受胎 - 第二章 龍興入室 - 第三章 負笈振錫 - 第四章 慈母嬰疾 - 第五章 名山歴訪 - 第六章 甲府論席 - 第七章 三教一致 - 第八章 会津没落
- 第二編 行化:第一章 北院嗣法 - 第二章 二星照児 - 第三章 悉地成就 - 第四章 興法利生 - 第五章 僧正拝任 - 第六章 法華大会 - 第七章 星岳興復 - 第八章 信教治国
- 第三編 人師:第一章 一句問答 - 第二章 晃山中興 - 第三章 祖志継紹 - 第四章 血脈相承 - 第五章 国家安康 - 第六章 天日新霽 - 第七章 仙洞伝法
- 第四編 国宝:第一章 駿城急馳 - 第二章 一実神道 - 第三章 晃廟遷座 - 第四章 矜哀救護 - 第五章 七回神忌 - 第六章 座主親王 - 第七章 東叡開基 - 第八章 二條行幸 - 第九章 御製天感 - 第十章 上野台臨 - 第十一章 女帝登極
- 第五編 菩薩:第一章 相国不予 - 第二章 骨肉乖離 - 第三章 山門復旧 - 第四章 照廟改営 - 第五章 神鶴献瑞 - 第六章 仙波炎上 - 第七章 大樹省病 - 第八章 日光門主 - 第九章 宝塔更築 - 第十章 世子生誕 - 第十一章 法宝付属 - 第十二章 大円正覚
- 残編 霊光:第一章 親王東降 - 第二章 諡号宣下 - 第三章 一品法王 - 第四章 玉振余響
- 附録:考異 - 慈眼大師天海大僧正年表