「近江八景」の版間の差分

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* 比良暮雪(比良山の夕暮れの雪)
 
* 比良暮雪(比良山の夕暮れの雪)
 
** 雪ふるる比良の高嶺の夕暮れは花の盛りにすぐる春かな
 
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==八景の発展==
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===狂歌・俳句・落語===
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江戸時代の狂歌の名人・蜀山人(大田南畝、1749~1823)の講談本によれば、近江に赴いたとき、駕籠屋に「この近江八景を三十一文字の歌の中に読み込めたら、駕籠賃をただにしてやる」と言われた。そこで詠んだのがこの狂歌である。
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「乗せたから、先は粟津か、ただの駕籠、比良石山や、馳せらしてみい」(の瀬田唐崎は粟津堅田の駕籠、比良石山矢橋らして三井)
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さらに俳句で「十七文字でこれを詠め」と難題を出した人がいるという。ところが、これも答えた人がいた。
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「七景は霞の中に三井の鐘」
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さらに「近江八卦」という上方落語では、近江八景を読み込んだ女からの手紙に対して、易者が逆の解釈をするという場面がでてくる。
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:「恋しき君の面影を、しばしが程は三井もせで、文の矢橋の通い路や、心堅田の雁ならで、我れ唐崎に夜の雨、濡れて乾かぬ比良の雪、瀬田の夕べと打ち解けて、堅き心は石山の、月も隠るる恋の闇、粟津に暮らす我が思い、不憫と察しあるならば、また来る春に近江路や、八つの景色に戯れて、書き送りまいらせそろ、かしく」
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:最初、さきの女が比良の暮雪ほど白粉を塗り立てたのを、お前が一目三井寺より、我が持ち物にせんものと、心矢橋に早って唐崎の夜の雨と濡れかかっても、さきの女が石山の秋の月じゃゆえ、文の便りも堅田より。それにお前の気がソワソワと浮御堂。その女も根がどぉ落雁の強い女じゃゆえ、とても瀬田いは持ちかねる。こりゃいっそ粟津の晴嵐としなさい。
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オチは「近江八景にゼゼ(膳所/銭)は要りまへん」である。
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*[http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakug176.htm 【上方落語メモ第4集】その176 / 近江八景]
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===鉄道唱歌===
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『鉄道唱歌』(作詞:大和田建樹)第1集東海道編(1900年)に近江八景が歌われている。
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:いよいよ近く馴れくるは 近江の海の波のいろ その'''八景'''も居ながらに 見てゆく旅の楽しさよ
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:'''瀬田の長橋'''横に見て ゆけば'''石山観世音''' 紫式部が筆のあと のこすはここよ月の夜に
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:'''粟津の松'''にこととえば 答えがおなる風の声 朝日将軍義仲の ほろびし深田は何かたぞ
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:'''比良の高嶺は雪ならで 花なす雲'''にかくれたり '''矢走にいそぐ舟の帆'''も みえてにぎわう波の上
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:'''堅田におつる雁がね'''の たえまに'''響く三井の鐘''' '''夕くれさむき唐崎の 松には雨'''のかかるらん
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:むかしながらの山ざくら におうところや志賀の里 都のあとは知らねども 逢坂山はそのままに
  
 
==外部リンク==
 
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2008年12月26日 (金) 13:47時点における最新版

近江八景(おうみはっけい)は、17世紀ごろに成立したと考えられる近江の八景。歌川広重の絵でも有名になった。

瀟湘八景を模倣して日本の八景を選んだものとしては、南都八景に次いで古いものであるが、こちらは瀟湘八景の言葉をそのまま使っている。

吉田元俊『扶桑名勝詩集』(延宝八年=1680年)によれば、近衛政家(関白・太政大臣を歴任)が明応九年八月十三日(1500年9月6日)に、近江守護六角高頼の招待で琵琶湖に赴き、その場で近江八景の和歌八首を即興で詠んだことに由来するという。しかし、この時期、政家は近江へ下向せずに自宅にいたことが日記に記されているため、この説は伝説である可能性が高い。

伴蒿蹊『閑田耕筆』(享和元年=1801年)によれば、伴は関白・近衛信尹(1565-1614)の自筆の近江八景和歌巻子を読んだという。その奥書には、現在の近江八景と同じ八景の成立経緯が紹介されていた。したがって、近江八景の起源は近衛信尹と考えられている。

昭和24年、新たに琵琶湖全体に広がる景観を紹介するため、「琵琶湖八景」が選ばれた。

近江八景

  • 石山秋月(石山寺の秋の月)
    • 石山や鳰の海てる月かげは明石も須磨もほかならぬ哉
  • 勢多夕照(瀬田の唐橋の夕焼け)
    • 露時雨もる山遠く過ぎきつつ夕日のわたる勢多の長橋
  • 粟津晴嵐(粟津の晴れた日のかすみ)
    • 雲はらふ嵐につれて百船も千船も浪の粟津に寄する
  • 八橋帰帆(矢橋に帰る船の帆)
    • 真帆ひきて八橋に帰る船は今打出の浜をあとの追風
  • 三井晩鐘(三井寺の晩鐘)
    • 思うその暁ちぎるはじめとぞまづきく三井の入あひの声
  • 唐崎夜雨(唐崎の夜の雨)
    • 夜の雨に音をゆづりて夕風をよそにそだてる唐崎の松
  • 堅田落雁(堅田に降りる雁の群れ)
    • 峯あまた越えて越路にまづ近き堅田になびき落つる雁がね
  • 比良暮雪(比良山の夕暮れの雪)
    • 雪ふるる比良の高嶺の夕暮れは花の盛りにすぐる春かな

八景の発展

狂歌・俳句・落語

江戸時代の狂歌の名人・蜀山人(大田南畝、1749~1823)の講談本によれば、近江に赴いたとき、駕籠屋に「この近江八景を三十一文字の歌の中に読み込めたら、駕籠賃をただにしてやる」と言われた。そこで詠んだのがこの狂歌である。

「乗せたから、先は粟津か、ただの駕籠、比良石山や、馳せらしてみい」(の瀬田唐崎は粟津堅田の駕籠、比良石山矢橋らして三井)

さらに俳句で「十七文字でこれを詠め」と難題を出した人がいるという。ところが、これも答えた人がいた。

「七景は霞の中に三井の鐘」

さらに「近江八卦」という上方落語では、近江八景を読み込んだ女からの手紙に対して、易者が逆の解釈をするという場面がでてくる。

「恋しき君の面影を、しばしが程は三井もせで、文の矢橋の通い路や、心堅田の雁ならで、我れ唐崎に夜の雨、濡れて乾かぬ比良の雪、瀬田の夕べと打ち解けて、堅き心は石山の、月も隠るる恋の闇、粟津に暮らす我が思い、不憫と察しあるならば、また来る春に近江路や、八つの景色に戯れて、書き送りまいらせそろ、かしく」
最初、さきの女が比良の暮雪ほど白粉を塗り立てたのを、お前が一目三井寺より、我が持ち物にせんものと、心矢橋に早って唐崎の夜の雨と濡れかかっても、さきの女が石山の秋の月じゃゆえ、文の便りも堅田より。それにお前の気がソワソワと浮御堂。その女も根がどぉ落雁の強い女じゃゆえ、とても瀬田いは持ちかねる。こりゃいっそ粟津の晴嵐としなさい。

オチは「近江八景にゼゼ(膳所/銭)は要りまへん」である。

鉄道唱歌

『鉄道唱歌』(作詞:大和田建樹)第1集東海道編(1900年)に近江八景が歌われている。

いよいよ近く馴れくるは 近江の海の波のいろ その八景も居ながらに 見てゆく旅の楽しさよ
瀬田の長橋横に見て ゆけば石山観世音 紫式部が筆のあと のこすはここよ月の夜に
粟津の松にこととえば 答えがおなる風の声 朝日将軍義仲の ほろびし深田は何かたぞ
比良の高嶺は雪ならで 花なす雲にかくれたり 矢走にいそぐ舟の帆も みえてにぎわう波の上
堅田におつる雁がねの たえまに響く三井の鐘 夕くれさむき唐崎の 松には雨のかかるらん
むかしながらの山ざくら におうところや志賀の里 都のあとは知らねども 逢坂山はそのままに

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