すべからく

出典: 閾ペディアことのは

すべからくは、「すべし」あるいは命令形と呼応する言葉であり、「必ずや~しなければならない」の意味を示す。

「すべからく」を「すべて(all)」の意味で使用するのは誤用である。

目次

再読文字

漢文においては、一つの漢字を2度読むものがある。これを再読文字という。

  • 未=「いまだ……ず」(まだ……していない)
  • 将・且=「まさに……とす」(今にも……しようとしている)
  • 方=「まさに……べし」(……すべきである)
  • 当・応=「まさに……べし」(当然……すべきである。きっと……だろう)
  • 須=「すべからく……べし」(きっと……しなければならない)
  • 猶=「なほ……ごとし」(……のようだ)
  • 盍=「なんぞ……ざる」(どうして……しないのか)[反語]

「須」

【須】
12画 頁部 [人名漢字]
区点=3160 16進=3F5C シフトJIS=907B
《音読み》 シュ[漢音]/ス[呉音]
《訓読み》 ひげ/もちいる(もちゐる・もちふ)/もとめる(もとむ)/まつ/もとめ/すべからく…すべし
《名付け》 まつ・もち・もとむ
《意味》
  1. {名}ひげ。柔らかいひげ。とくに、あごひげ。〈同義語〉→鬚シュ。「竜須リュウシュ(竜のひげ)」「須髯シュゼン」
  2. {動}もちいる(モチヰル・モチフ)。もとめる(モトム)。他の何物かにたよろうとしてまちうける。ぜひ必要とする。ぜひにと期待する。〈類義語〉→需シュ/ジュ。「必須ヒッス/ヒッシュ」「急須キュウシュ(さし迫って必要とする。日本では急いで湯をわかすきゅうすのこと)」「何須…=ナンゾ…スルヲ須ヰンヤ」「不須…=…スルヲ須ヰズ」
  3. {動}まつ。こちらが動かず、相手の動きをまち望む。その機会をまちうける。〈類義語〉→待。「須待シュタイ」「相須甚切=アヒ須ツコトハナハダ切ナリ」「須其成列而後撃之=ソノ列ヲ成スヲ須チテ後コレヲ撃ツ」〔→穀梁〕
  4. {名}もとめ。要求。需要。〈同義語〉→需。「不給使君須=使君ノ須ヲ給セズ」〔→李賀〕
  5. {助動}すべからく…すべし。動詞の前につけ、ぜひ…する必要がある、の意をあらわす。「須知=須ラク知ルベシ」▽「応須」というかたちで用いたときは、「まさにすべからく…すべし」と読み、当然…する必要がある、の意。
  6. 「須臾シュユ」とは、ほんの短い間、ごくわずかの時間がたって、の意。▽「須」は、細いひげ。「臾」は、細く抜き出すこと。いずれも細く小さいの意を含む。「不可須臾離也=須臾モ離ルベカラザルナリ」〔→中庸〕
(漢字源より)

すべからく

日本における漢文読みにおいて、助動詞「須」には「すべからく……すべし(or命令形)」という読みが与えられた。「すべからく」は、

  • す(サ変動詞終止形)
  • べから(助動詞べし未然形)
  • く(ク語法(「~こと」という意味の名詞を作る語法))

の3要素に分割され、「すべきこと」という意味で副詞的に使われた。

したがって、この言葉は必要・義務(あるいはその否定)の意で使われるものであり、通常は述語もまた義務や命令の意味の言葉(「べし」が代表的、あるいは命令形)で受ける。

最も典型的な用法としては、「勤労者はすべからく勤務に励むべし」(勤労者は必ずや勤務に励むべきである)といった表現になる。

これを「勤労者はすべからく勤務に励む」と表現すると誤りである。命令・義務等の意味が含まれていないからである。

金田一春彦氏の日本語教室 (ちくま学芸文庫)には以下の表現があるが、命令形に対応しているため、正しい用法となる。[1]

「このようなことは日本文を扱うあらゆる方面で起こることで、日本語はすべからく、短文で綴れ、ということになる」

すべからくの誤用

近年多く見られるのが、「すべからく」を「すべて」の高級表現として用いる例である。これについては後述の呉智英に始まる批判がある。

一方で、「すべからく」を「当然」の意味で用いてよい、と考える誤解も広まりつつあるようである。ツイッターでの実例「試験の点数取るためのスキルって、すべからくそーゆーもん」。この誤用例はおそらく「すべて」の意味に限りなく近いが、「当然そういうものだ」という解釈も可能である。

しかし、いずれも誤りである。「すべからく~すべし」は「すべからず」と対応する表現であると考えればわかりやすいが、そこには「すべきである」という意志が含まれなければならない。つまり、「必須である」「なす必要がある」「やらねばならぬ」である。これと「当然そういうものだ」という一般論的な言い方とは距離がある。「すべからく~すべし」には、そうしなければならないという意図が含まれねばならない。「含まれねばならない」を「すべからく~すべし」で表現することはできないが、「正しく使うべきである」というのであれば「すべからく正しく使うべし」と表現することが可能になる。

もちろん、ここには「すべて」の意味はゼロであるし、「当然そういうものだ」という言い回しにも合わない。

ただし、「応須」は「まさにすべからく…すべし」と読んで「当然…する必要がある」という意味である。しかし、「まさにすべからく」で初めて「やって当然」となるのであり、しかもそこには「すべからく」単体と同じく、発話者の意図・意志として「必ずそうしなければならない」という主体性が求められる。

「すべからく」はこのように、発話者の能動的意図が含まれる表現であり、それなるがゆえに誤用においても「何となく強調としてかっこよさそう」というニュアンスをもたらしたものと思われる。

すべからくの誤用に対する批判

「すべからく」を「すべて」の意味で発言することに対して、単なる誤字・誤用の指摘のレベルを超えて、その背後にある心理にまで言及した有名な人物として、呉智英がいる。

  • 呉智英 インテリ大戦争 JICC出版局 (1982/03)
  • 呉智英 インテリ大戦争―知的俗物どもへの宣戦布告 文藝春秋 (1988)
  • 呉智英 インテリ大戦争 洋泉社 (1995/01)
    • 現代ヤミ市―山本七平・岸田秀「日本人と『日本病』について」
      このあたり、岸田自らが立脚する「唯幻論」そのものという感じであるがもっとズサンな所は他にもある。岸田はケンカについて、こう言う。「日本人のけんかというのは、すべからく『怨みを晴らす』という形」。意味不明の日本語だ。岸田は「すべからく」を「すべて」の高級表現だと思っているのである。「すべからく」は漢字で書けば「須らく」で、意味は「ぜひ(~をせよ)」であり、つまり「すべからず」の反対語である。早大文学部卒、和光大教授の岸田センセは、本書の中で日本語の動詞の語尾変化についても論じていらっしやるが、「ク語法」(高校古文で習う)については御存知ないらしい。否、センセだけを非難してはいけない。管見の範囲では、評論家・上野昂志、同・川本三郎、演劇家・唐十郎、詩人・鈴木志郎康などが「須らく」を「全て」の高級表現と思い込んで使っている。この四人に共通することは、いわば反権威・反規範主義である。そういった人たちが文法規範に無知であること自体はかまわないとしても、「全て」と平易に言えばすむものを、高級表現だと思って誤用する心は皇室と縁組したがる成金のようで、卑しい。その卑しさがファシズムを生んだとするのが、単純化して言えば、心理学者・フロムの説である。そこまで見すえた時、初めて、個別科学である心理学が、説明原理を支える一柱となりうるのだ。
    • 趣味としての摘発――誤記・誤字・誤植をあげつらう
      '71年頃、『少年マガジン』誌上に「へんな学校」というおもしろいコラムがあった。ここで、「すべからく」という語を「すべて」という意味に誤用していた。「すべからく」とは「為可し」のク語法による名詞化だから、「なすべきことには」「ぜひとも」というような意味であり、「すべて」とは全く無関係。
      さっそく、投書。
      すぐに、返事。
      やがて、単行本が出版されると、サイン本の寄贈を受けた。満足である。

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  • 呉智英 バカにつける薬 双葉社 (1988/01)
  • 呉智英 バカにつける薬 (双葉文庫) 双葉社 (1996/07)
    • 第二章「バカを撃つ」「もったいをつけた迷文で珍論を説く 上野昂志の巻」
      この問題については、私は自分の著作で何度か述べているが、簡単にまとめて再論しよう。
      1. 無知は恥ずかしいが、それはそれだけのことである。失敗は私にもある。誤字誤用も然り。
      2. 「須く」は「すべし」のク語法による変化であり、意味は、義務・命令・当為である。非常に分かりやすく言えば、「すべからず」が禁止(するな)なのだから、「すべからく」が命令(せよ)だと思えば、当たらずといえども遠くはない。
      3. だが、誤用がこの十余年、特に目に付く。それは「須く」を「すべて」の高尚な雅語だと思ってのことである。そして、この誤用者は、ほとんどスベカラク次の二種類の人である(上野よ、どうしてこの文章を「すべし」で結べると言うのだ)。一つは、上野に代表される反権威・反秩序・反文部省の人たち。そして、もう一つは、前者ほど多数ではないが、宮本盛太郎など、前者とは逆に反権威・反秩序・反文部省の人たちに反感を覚えながら、単に、反反権威・反反秩序・反反文部省を対置することしかできない人たち。この二種類である。
      4. そこには、次の心情が見てとれる。まず、前者。権威主義的な雅語・文語を批判しているつもりのその心の底では、自分が雅語・文語をつかいこなせない妬みがとぐろを巻いている。この人たちが権威批判をするのは、自分が権威から疎外されているからにすぎない。次に、後者。この人たちは、戦後民主主義の中では、本来は権力に関わる立場にいながら、言論界ではしばしば少数派の悲哀を味わわされている。言ってみれば、アメリカにおけるプア・ホワイトである。プア・ホワイトの妬みの構造は、前者と類似している。つまり、前者も後者も、心情的に、自分が正統になりえないことの都合のいい大義名分として、反正統を唱えているのである。
      5. というようなことも、やはり省みれば、誰の心の中にもスベカラク存在する(上野よ、これはどうだ)。だから、これについても、単純な無知無学よりねじれている文だけ、卑しいが、私のみが石もて打つことはできない。
      6. しかし、民主主義は、この卑しさを制度的・構造的に生み出し増殖させる。それは、平準化=「易しさへの強制」の逆説である。漢字は難解であり権威主義的であり、特権階級にのみ奉仕するものだとして、民主主義の名において、易しさへの国家権力による強制が行われた。当用漢字制度などの漢字制限である。「須く」も、この一環として、国家権力によって抹殺されたのだ。
      7. それでも、国家権力によるどんなに理不尽な蛮行があったとしても、結果的に、易しさの実現が成功し、ひいては、あらゆる権威が消滅する社会が到来したのなら、それはそれでかまわない。だが、現実に到来したのは、漢字制限による言語表現の混乱と、それに乗じて、反権威を大義名分にする権威亡者の跳梁だけであった。
      8. ここにこそ、民主主義の究極形がスターリニズムとファシズムであることが、はっきりと現れている。

ほぼ日刊イトイ新聞-ダーリンコラム2003-10-27

評論家の呉智英が書いてから、
「須く(すべからく)」ということばの誤用について、
とてもおおぜいの人が注目するようになったけれど、
もともと呉智英は、
「すべからく」に代表されるような
「むつかしそうなことばを、えらそうに使う」人の
イージーな教養主義をからかいたかった
ということなのであって、
「すべからく摘発組」を組織したかった
わけじゃないと思うんですけどね。

出典

  1. 続・「すべからく」は「全て」ではない(06/11/20) - 言語楼-B級「高等遊民」の戯言

関連項目

外部リンク


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