多摩蘭坂

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多摩蘭坂/たまらん坂(たまらんざか)は、東京都国立市東3丁目から国分寺市内藤2丁目に抜ける通り(東京都道145号立川国分寺線、通称:多喜窪通り)にある坂である。

この坂は一橋大学(当時は東京商科大学)が昭和2年に国立に移転してきた前後に切り開かれた。「たまらん坂」の命名は最初期の一橋大学学生によるものであり、「多摩蘭坂」の当て字を考案して坂の赤土の壁に刻んだ学生たちの名前も判明している。名前の由来は、ここを通る女学生の姿に思わず「こりゃたまらん」と叫んだ学生によるものである。

その後、1970年代にRCサクセションの忌野清志郎がこの坂のあたりに下宿していたことがあり、「多摩蘭坂」というタイトルの曲が作られて有名になった。

黒井千次著『たまらん坂 武蔵野短篇集 (講談社文芸文庫)』では、忌野清志郎の歌『多摩蘭坂』に触発されてその名称の由来を探っている。

命名の由来

多摩蘭坂には「たまらん坂」と書かれた国分寺市による解説柱が立てられている。

この坂は、国立から国分寺に通ずる街道途中の国分寺市境にあたります。大正時代国立の学園都市開発の際、国立と国分寺をつなぐ道路をつくるために、段丘を切り開いてできた坂です。諸説ありますが、一橋大学の学生が、『たまらん、たまらん』と言って上ったとか、大八車やリヤカーをひく人が、『こんな坂いやだ、たまらん』といったことからこの名がついたと言われています。当字で「多摩蘭坂」とも書きます。

ただし、この名称の由来は違っている。正確な由来を記しているのが、最初期の一橋大学の卒業生による自費出版本『国立・あの頃』(昭和47年11月5日、国立パイオニア会編集発行)である。この本は、くにたち中央図書館の郷土資料室に保存されており、黒井千次もこれを参照している。

『国立・あの頃』には、昭和三年卒の加納太郎氏による「たまらん坂その他」と、昭和五年卒の吉井卓氏による「多摩蘭坂物語」が収録されている。

加納氏によれば、国分寺駅から一橋大学に向かう下り坂がぬかるんでいたので「たまらん坂」となったものだという。

 国立は昭和二年四月先ず専門部が一橋から移され、私達は三年生として最初にこの国立の土を踏んだ。箱根土地(株)が南向のなだらかなスロープをキャッチフレーズとして、学園都市建設を夢みその計画の奔りとして招致されたのである。当時は駅と駅前の箱根土地の案内所と右側に三軒、左側に二軒ほど見本建築があり、他に数軒の下宿屋と商店、右方の立川へ行く道に国立音楽学校と郵便局があった。後は皆雑木林で私達の校舎もその中にあった。「たまらん坂」は駅から左へ約二百米位、国分寺に向う為に雑木を切り開いた赤土の坂でまだ名は無かった。
 私達の通学は中央線の八王寺行の汽車で始まった。一駅手前の国分寺迄は省線(国電の前名)があり、汽車に乗り遅れると、数分違いで到着する省線で国分寺迄来て、駅前に待っているシボレーかフォードかの(まだ国産車はなかった)一台だけの車に乗り合わせるか、或は約四キロを強行するかになる。漸く「たまらん坂」迄来ると校舎が見え、校舎の左裏側へ通ずる斜の道が開ける。ちょうど坂のあたりへ来る頃、始業の鐘がカンカンと鳴り、私達は最後のダッシュをかけるのが常であった。それでも天気の好い日は宜いが、雨降りや雨上りの時は、柔い赤土が粘って一足毎にからみつく、折柄、鐘は鳴る、心は焦せるが走れない。靴は赤土で膨れ上ってますます重くなり、ズボンは泥まみれて、やっと教室近くまで来ると、もう出欠をとる先生の声が聞える。飛び込みさま、
「ハッハイ」
 辛うじて席に着くと、吐息絶え絶え思わず嘆く。
「こいつあ、堪らん」
 これが「たまらん坂」命名の発祥である。

しかし、吉井卓氏は別の由来を示し、しかも自分たちが命名の由来であると主張している。

実を申せば、この坂の名を付けたのは、何を隠そう、私たちクラスメートの仲間である。はっきり名乗りをあげれば、菊地、本沢、藤田、恩田、井熊、小林、新井、それに私を加えた八人のメンバーである。この八人が多摩蘭坂の名つけ親であることに間違いない。私たちは、昭和二年の春入学し、国立のパイオニアとして、新校舎に一番乗りしたクラスの仲間である。

この八人は、多摩蘭坂の上に下宿していた。

 私たちは、入学した当初、国立の鳩屋という寮に下宿した、ところが、仲間四、五人で相談して、鳩屋を出てどこかお百姓さんの家でも借りて下宿しようではないかということになり、下宿探しをはじめた。そして、付近の農家を探し廻った末、国立に近い国分寺村内藤新田の田中さんというお百姓さんを探しあてたのである。田中さんは私たちの話を聞き、早速私たちの希望を受け入れて、急造の下宿屋を造ってやろうということになり、後に多摩蘭坂と名をつけたこの坂の上に、八人分の宿舎を新築してくれたのである。この宿舎は、田中さんの母屋から二〇〇米ばかり離れていて、国立から国分寺に通ずる道路に沿うていた。そこで私たちは、ハトヤの脱退組に三、四人のメンバーを加えて、八人がこの坂の上の宿舎にたむろすことになったのである。

そこでの生活はなかなか快適で楽しかったようである。そのような日々に、変化が訪れた。

 あるよく晴れた秋の日、数人の女学生が坂を上ってきた。そして、私たちの宿舎の前で立ちどまった。国立から国分寺まで歩いて帰る音楽学校の女生徒たちであった。長い袴をはいた着物姿がいかにも女学生らしく美しく感じられた。彼女たちは、宿舎の前に群がり咲くコスモスの花を摘んでいるのである。秋の日に映えて、コスモスの可憐な美しさが、一層彼女たちを麗しいものにした。私たちは部屋の中から、息を殺して、さとられぬようにじっと彼女たちを見つめていた。やがて、彼女たちは手一杯にコスモスの花を摘み終わって、国分寺の方へ立ち去って行った。
 このとき、突然、宿舎の一角から大きな叫び声が起った。
「わしゃ もう たまらん」
「もう たまらん」
 まさしく菊地の声であった。菊地は、私たちの仲間の中では一番の年輩だった。偉大な体格の持ち主で、剣道の選手だった。このとき以来、菊地は若い女性を見ると、
「わしゃ もう たまらん」
というのが口ぐせのようになった。「たまらん」という言葉、それは、青春の感情の極限を表現するものだったのかもしれない。それからは、「たまらん」という言葉は、菊地だけでなく、私たちみんなの合い言葉のようになってしまった。
 学校からの帰り、この坂にさしかかったとき、私たちは、この坂を上ってくる女学生たちのことを連想した。そして思わず叫んだ。
「もう たまらん」
 おかしなことに、この坂に来ると自然に、「たまらん」という言葉が口に出てしまう。まさに、この坂は「たまらん坂」になってしまったのである。
 そこで、いっそ、この坂に「たまらん坂」という名前をつけようではないかということになったのだが、「たまらん」では趣がないので、格好のよい字をあてはめることにした。この地方の名から「多摩」をとり、北大の校歌にちなむ鈴蘭の「蘭」の字をとって、「多摩蘭坂」と書くことにした。私たちは、厳かに、「多摩蘭坂」の名を宣言した。そして、岡を切り開いた両側の赤土の壁に大きな字で多摩蘭坂と刻みこんだ。
 多摩蘭坂の名はこのようにして生まれた。

つまり、女学生の姿が「たまらん」坂なのである。

RCサクセションの「多摩蘭坂」

現在、多摩蘭坂は忌野清志郎の「聖地」の一つとなっており、2009年5月の忌野清志郎の没後はファンからの献花なども見られた。

黒井千次「たまらん坂」

黒井千次の「たまらん坂」はRCサクセションの「多摩蘭坂」に触発され、その地名の由来を探る短編小説である。最終的に、くにたち中央図書館を訪れ、『国立・あの頃』によって正確な由来にたどりつくことになるが、その経緯は、地名に関する伝説が生まれる過程を暗示しているようである。