大衆

出典: 閾ペディアことのは

大衆(たいしゅう)とは、本来は仏教語「大衆(だいしゅ)」(僧侶の集団)あるいは多数の人を指した言葉であるが、関東大震災の前後から現在の「一般民衆」の意味(massの訳語)で用いられるようになった言葉である。

目次

古い語義

仏教における「大衆」(僧団)

仏教語としての「大衆」は呉音で「だいしゅ」と読む。サンスクリット語mahAsamgha(マハーサンガ、摩訶僧伽)の訳語であり、比丘が多数集まったもの、すなわち僧団を意味する。この意味においては一般庶民とは対比される聖職者集団を指すことになり、現在の意味の「大衆」とはまったく異なることとなる。

日本での用例としては7世紀の『法華義疏』にも現われており、『平家物語』に「山門の大衆に仰せて、平家を追討せらるべし」「南北二京の大衆ことごとく供奉して」、『日葡辞書』に「Daixu (ダイシュ)〈訳〉比叡山の僧たち」と記載されている。

荀子

荀子では「大衆」の語が2回出てくる。

忍情性,綦谿利跂,苟以分異人為高,不足以合大衆,明大分,然而其持之有故,其言之成理,足以欺惑愚衆:是陳仲史鰌也。

『荀子』非十二子

凡人之動也,為賞慶為之,則見害傷焉止矣。故賞慶、刑罰、埶詐,不足以盡人之力,致人之死。為人主上者也,其所以接下之百姓者,無禮義忠信,焉慮率用賞慶、刑罰、埶詐,除阨其下,獲其功用而已矣。大寇則至,使之持危城則必畔,遇敵處戰則必北,勞苦煩辱則必奔,霍焉離耳,下反制其上。故賞慶、刑罰、埶詐之為道者,傭徒鬻賣之道也,不足以合大衆,美國家,故古之人羞而不道也。

『荀子』議兵

「多数の人」を意味する「大衆」

漢音で「たいしゅう」と読む「大衆」は大勢の人たち、あるいは人が多く集まることという意味で用いられた。この用例はかなり新しく、また仏教語としての大衆(だいしゅ)ほど一般的には用いられなかったようである。

massとしての「大衆」の登場

高畠素之の『大衆運動』「大衆社」「大衆主義」:1920

社会主義者の高畠素之は大正九年(1920年)に週刊新聞『大衆運動』を発行し、大正十年には「大衆社」を組織した。これが現代的なmassの訳語としての「大衆」が用いられた最初の例と考えられる。

『中央公論』昭和三年四月号に掲載された高畠の「大衆主義と資本主義」から一部引用すると以下のとおりである。

考へて見れば、大衆といふ文字も平俗化したものである。七八年前、斯くいふ筆者などが『大衆運動』といふ週刊新聞を發行し、陋屋を名附けて『大衆社』と呼んでゐた頃は、それがハシリだつたせいもあらうが、恐ろしくギゴチないものに引象されてゐた。ところが、どうした風の吹きまわしか、急に震災前後から流行的に濫用され出し、大衆文藝や大衆興行などはまだしも、汁粉屋の廉賣に『大衆デー』を敢て命名する時勢となつてしまつた。かうと知つたら、逸早く『大衆―』の特許權でも出願して置いたものを、今となつては後の祭りで何んとも致し方がない。などと、これは戲談だが、それほど『大衆』は時代の寵兒となり、硬軟兩面から珍重がられてゐる。

大衆とは何んであるか? 大衆は大衆である。有れども無きが如く、無けれど有るが如く、その正體は一向に明瞭でない。無産黨的論客の口吻に從へば、大衆とはプロレタリアそれ自體と同義異語であるかに聞こえるし、有産黨的辯士の演説に依れば必らずしも然らず、漠然たる國民的多數といふ程の意味に使用してゐる。大衆文藝や大衆興行やの場合は、ヨリ高いものに對するヨリ低いものを現はし、通俗的安易的な娯樂といふ程の意味に通ずる。若し夫れ汁粉屋やバナナ屋に至つては、單なる價格的低廉を意味するだけで、大衆と小衆とを論ずべき問題でなささうに思はれる。斯くの如く、大衆の意味内容に關しては十人十色の解釋を下し、お互ひに自分勝手な理屈を求め、彼等自身の正當性を是認する口實たらしめてゐるのだから、大衆の正體も勢ひ浮動を免れぬのが當然である。禅的遁語を用ひずとも、有れども無きが如し、といふの外はなからう。

しかし、一應の理屈は理屈として、いはゆる大衆も決して有名無實の存在ではない。物あれば必らず大小あり、比較的大と比較的小とは如何なる場合にも免れがたい。六千萬國民を分別するとき、假りに所得の問題を中心とすれば乏しき者が多數であり、教養の問題を中心とすれば低き者が多數である。尤も右の場合、所得なり教養なりの標準的高低に依り、多少の異同は免れぬところであるが、大體に於いて『擇ばれたる少數』と、然らざる多數とは常に併存してゐる。大衆とは即ち、後者の『擇ばれざる多數』の意味に外ならない。

大衆は如何に『衆愚』であつても、右の如き商業主義の見地に於いては、最も有りがたかるべき大事な顧客である。さればこそ、上はヘンリー・フオードより下は木内興行部に至るまで、大衆主義を唯一の看板としなければならなかつた。その結果、時代に對する大衆的興味を著しく助長したと共に、大衆そのものを味方に惹き入れんとする當面の商策は、やがて大衆に對する煽動にまで發展したのである。無産黨に對する新聞紙の態度などは、その最も代表的な一例だが、既成政黨對普選の關係などにも同じことが言ひ得られる。

(中略)先づ大衆を持ち上げ、その機嫌を取り結ぶことに依つて利益する『小衆』があり、斯うした小衆の煽動があつたればこそ、副次的にして偶然的なる結果として、大衆の自覺も間接に奬勵されたに過ぎない。寧ろ小衆の側からいへば、大衆に迎合し大衆を煽動はしたが、それは斯くすることに依つて彼等自身が利益し得るからで、假りにその結果として、大衆の物質的利益や精神的自覺が齎されたとしても、それは『招かざる客』であつた。

要するに、大衆主義と資本主義とは楯の兩面である。

すなわち、高畠は以下のように主張している。

  • 高畠素之が「大衆社」「大衆運動」という名称を用いたころ(大正九~十年ごろ)にはまだハシリであって、まだなじみが薄かった。
  • 関東大震災(大正十二年ごろ)から流行的に使われるようになった。「大衆文芸」「大衆興行」から汁粉屋の特売「大衆デー」という用法もあった。
    • 社会主義・共産主義者の用法では、大衆とはプロレタリアとイコールである。
    • 資本主義者の用法では国民の多数という漠然とした意味で使われている。
    • 「大衆文芸」「大衆興行」の例では高尚なものに対する低劣なもの、通俗的・安易的な娯楽という意味となる。
    • 汁粉屋やバナナ屋などでは単に価格が安いということを意味している。
  • 高畠は「選ばれた少数」と「選ばれざる多数」を対比させ、大衆とは選ばれざる多数であると定義づける。
  • 「衆愚」である「大衆」がなぜ幅をきかせるようになったか。大量生産・薄利多売の原則により、資本家は大衆を顧客とすることによってのみ利潤が期待できるようになったからである。そこで小衆(資本家)が大衆を客として持ち上げるようになった。
  • 大衆が自覚したというのは、他者から自覚させられたのである。新聞・出版・興行は大衆への共鳴・共感を示すことによって利潤を得ようとした。

白井喬二の『大衆文芸』:1925

小説家・白井喬二(1889-1980)は、『中央公論』大正十五年(1926年)七月号で「大衆」という言葉の最初の使用者であると自称している。白井は大正十四年(1925年)に直木三十五・江戸川乱歩らとともに「二十一日会」を結成、機関誌『大衆文芸』を創刊した。

直木三十五『大衆文芸作法』では以下のように記されている。

 現在、大衆文芸の名によって呼ばれている如き作品、及びその作家は、震災後に著しく発達し、大衆文芸なる名称も、従って亦その時代以後に使用されるに至ったものである。震災以前とて、その傾向が無いではなかったが、従来の型の如き型を破った髷物(まげもの)小説は、僅かに、指折ってみて、中里介山の「大菩薩峠」(都新聞)、国枝史郎の「蔦葛木曾桟(つたかずらきそのかけはし)」(講談雑誌)、白井喬二の「神変呉越草紙」(人情倶楽部)、大佛次郎の「鞍馬天狗」(ポケット)に過ぎなかったものである。
 然も、現在に於て、これらの作家は、大衆作家として第一流の名声を獲得しているが、その当時に於ては、殆(ほと)んど人の知る者無く、読書階級に於ては勿論、一般の人々にも迎えられていなかったものであった。
 震災後に於て、プラトン社より「苦楽」が出て、講談物を一蹴して、新らしき興味中心文芸を掲載すると同時に、この新らしき機運は大いに動いて来たのであった。そうして新聞社関係の人々は、こういう作品に、新講談という名を与え、文藝春秋、新小説の人々は、読物文芸という名によって呼んでいたのである。
 その内に、白井喬二が、大衆文芸という名称を口にし、同氏が擡頭(たいとう)すると同時に、この名称が一般化して、今日の如く通用する事になった。字義の正しさより云えば、大衆とは、僧侶を指した言葉であるが、震災前に、加藤一夫らによって、しばしば民衆芸術、即ち、現在のプロレタリア芸術論の前身が、叫ばれていた事があり、それと混同を避ける為に、熟語である「民衆」よりも、新しく、「大衆」という文字を使用したのであって、民衆も大衆も、多衆の意味であることに、何等相違はない訳である。
(中略)
 それで、それらの総てを包含した物として、大衆文芸の定義を下すなら、
「大衆文芸とは、表現を平易にし、興味を中心として、それのみにても価値あるものとし、又は、それに包含せしむるに解説的なる、人生、人間生活上の問題をもってする物」と云いたいのである。

芸術大衆化論争

昭和三年(1928年)、プロレタリア文学の世界において、蔵原惟人と中野重治を中心とした「芸術大衆化論争」が起こった。それ以後、論争は数回ぶり返され、『文学評論』昭和十年八月号「文学大衆化問題の再三提起」において貴司山治はこう記した。

 すべての諸君が知ってゐるやうに、この問題は過去のプロレタリア文学の全歴史を通じて流れてゐる問題である。
 問題の最初の提起は蔵原、中野、鹿地等による一九二七年の論戦[1]、第二回が一九三〇年に、僕などが参加しての論戦―この時は『文学大衆化に関する決議』が生み出された[2]
 第三回目と目されうるのが一九三一年から二年へかけての徳永君の論文『プロレタリア文学の一方向』を中心としての論戦。
 今度は第四回目にあたる。

第一回芸術大衆化論争:1928

『戦旗』昭和三年(1928年)六月号「いはゆる芸術の大衆化論の誤りについて」で中野重治は「大衆の求めて居るのは芸術の芸術、諸王の王なのだ」と主張し、あるべき芸術とあるべき大衆を一致させることで溝を埋めようとした。

一方、『戦旗』同年八月号「芸術運動当面の緊急問題」で蔵原惟人はそれを「純然たる理想論、観念論でしかない」と批判し、「『大衆に理解され、大衆に愛され、而も大衆の感情と思想と意志とを結合して高め』得る如き、芸術的形式を生み出さなければならない」と主張した。「芸術を利用しての大衆の直接的アジ・プロの運動」と、「プロレタリア芸術の確立」とを区分けすることを主張し、組織論によって溝を埋めようとした。

『戦旗』同年十月号「プロレタリア大衆文学の問題」で林房雄は「内容に於ける大衆性なるものは一般にあり得ない」「先づ形式上の大衆性から始」めよと主張し、形式の問題に限定した。

この論争自体は『戦旗』同年十一月号「解決された問題と新しい仕事」において終結する。

第二回芸術大衆化論争:1930

『戦旗』昭和五年(1930年)四月号「『ナップ』芸術家の新しい任務」で蔵原惟人は「前衛の観点をもって描け」「芸術運動のボルシェヴィキ化」という方針を打ち出した。

これに基づき、『戦旗』同年七月号で日本プロレタリア作家同盟中央委員会は「芸術大衆化に関する決議」を行なった。真の意味でのプロレタリア芸術以外に大衆芸術はなく、「××(革命)的プロレタリアートのイデオロギーを内容する芸術」を大衆化しなければならない。作家が真に前衛の観点にたてば、芸術の大衆性は約束される、と述べた。

これは林房雄の形式論を斥け、貴司山治の大衆化には「イデオロギーを割合にゆるやか」にした作品が必要だという意見を斥ける目的だった。

第三回芸術大衆化論争:1932

『中央公論』昭和七年(1932年)二月号に徳永直が「プロレタリア文学の一方向」を発表する。徳永は林・貴司らと同じ方向性の主張である。

これに対して『新潮』同年四月号で小林多喜二が「『文学の党派性』確立のために」で批判した。これは第二回芸術大衆化論争と同じパターンであった。

永井荷風の日記:1929

永井荷風『断腸亭日乗』昭和四年(1929年)三月二日に以下のように記されている。

今の人新聞掲載の通俗小説を呼んで大衆文学となす、大衆の語は荀子の篇中より取りたるもの歟、数年前大地震の頃には世人猶大衆の語を用いざりしが、この両三年この語大流行す

  1. 正確には1928年
  2. 正確には芸術大衆化に関する決議

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