盆踊りの話
盆踊りの話は、折口信夫が盆踊り・お盆について考察した文章である。
ここでは、青空文庫版 折口信夫 盆踊りの話 に基づき、松永英明が現代語訳して全文掲載する。
一
盆の祭り(仮りに祭りと言っておく)は、世間では、死んだ聖霊を迎えて祭るものであると言っているが、古代において、死霊・生魂に区別がない日本では、盆の祭りは、いわば魂を切り替える時期であった。すなわち、生魂・死霊の区別なく取り扱って、魂の入れ替えをしたのであった。生きた魂を取り扱う「生きみたまの祭り」と、死霊を扱う「死にみたまの祭り」との二つが、盆の祭なのだ。
盆は普通、霊魂の遊離する時期だと考えられているが、これは承知できないことである。日本人の考えでは、魂を招き寄せる時期というのが本当で、人間の体の中へその魂を入れて、不要なものには帰ってもらうのである。これが仏教伝来の魂祭りの思想と合して、合理化されてできたものが、盆の精霊会である。
七夕の祭りと盆の祭りとは、区別がない。時期からいっても、七夕が済めば、すぐ死霊の来る盆の前の「生魂の祭り」である。現今の人々は、魂祭りといえばすぐさま陰惨な空気を考えるようであるが、我々の国の古風では、これは陰惨なときではなく、非常に明るい時期であった。この時期における生魂の祭りの話を、簡単に述べようと思う。
二
日本民族のはかりしれない大昔、日本人が国家組織をもって定住していないころ、あるいはそれ以前に、我々の祖先が多分まだこの国に住んでいなかったころから、私の話は、語り出される。
そのころの日本の人々の生活は、外来魂を年に一度、切り替えねばならなかった。それが、年に二度切り替えることにもなっていった。本来ならば、少なくとも一生に一度切り替えればよいのであるが、これを毎年切り替えることになった。年の暮から初春になるときに、蘇生するために切り替えをし、その年の中頃にもう一度繰り返す。この、後の切り替えが、精霊祭りである。
切り替えとは、魂を体に付けることである。魂を体に付加すると、一種の不思議な偉力ができたのである。たとえば、ある地位にある人は、その外から来る魂を体に付けなければ、その地位を保つことができないのだ。これを一生に一度やるのが、年に二度となり、六度行った時代もあったようだ。
二度の魂祭り、すなわち、暮と盆との二度の祭りに、子分・子方の者から、親方筋へ魂を奉る式「おめでたごと」ということが行なわれたのは、この意味であった。「おめでとう」ということばを唱えれば、自分の魂が、上の人の体に付加するという信仰である。正月には魂の象徴を餅にして、親方へ奉る。
朝覲行幸というのは、天子が、親の形をとっておいでなさる上皇・皇太后のところへ、魂を上げに行かれた行事である。我々の生活もまた同様で、盆には鯖(サバ)を、地方の山奥等では塩鯖をささげて、親・親方のところへ行った。いつのころから魚の鯖になったかわからないが、さば(産飯)ということばの連想から、魚の鯖になったことは事実である。この行事を「生き盆」「生きみたま」という。
三
神道の進んでいくある時期に、魂の信仰が、神の信仰になっていったことがある。昔は、神ばかりいたのではない。精霊がいて、これが向上し、次第に位を授けられて神になったものと、霊魂というもっと尊い神とがあった。その形が断片的に今日の風俗伝説に残っている。その時期に、古代には少なくとも、神が海なら海、河なら河を溯って来て、その辺りの聖なる壇上に待ちかまえている処女の所へ来る。そのとき、聖なる処女は機を織っているのが常であったらしい。この処女が棚機つ女(タナバタツメ)である。この形は、魂の信仰が神の形に考えられたのである。
夏に神が来る。――夏の末、秋の初めに神が来ると考えたのは、日本神道の上でも新しいものである。といっても、わが国家組織がまとまるか、まとまらないころのものであらう。この時期に、我々の民間に残っている、注意すべきことは、処女どもが一所に集って物忌みすることである。今日でも、地方地方に残ってはいるが、たいていは形式化して、やらねば何となく気が済まぬからというような気分で、形式だけを行っている。これをある地方では、盆釜(ボンガマ)という。
地方には、その時だけ村の少女ばかり集まって、一か所にかまどを築いて遊ぶことが今も残って居る。これが実は、いわゆる「ままごと」の初めである。日本人は、隔離して生活するときには、別なかまどを作って、そこで飯を焚くのが常である。盆釜は、「うなゐ」・「めざし」等と称せられる年ごろの同輩が、別に竈を造って、ものを煮焚きして食べる。このときに、小さい男の児たちが、それを壊しに行って喜ぶようなことが行なわれている。
盆釜と同じもので、春には、男の子らが鳥小屋を作ってこもることがある。これは、男の子が「くなど」に奉仕する物忌みなのである。盆釜とは、幼女が処女の仲間入りするためのものである。
これに対して、田植えに先だって処女が山籠りをする行事は、処女から成熟した女になる式である。すなわち、日本では、子供から男・女になるまでに、式が二度あった。男の方では、袴着の式――いわばふんどし始めである。女の方では、今言った裳着の式――腰巻始めとでも言ったらいいか。その裳着の式が二度ある。少女の時と、成熟した女になる時の式とである。しかしこれは一度にしたりすることがあるから一概に言えないが、まず二度行はれるのが本当である。
この式は、田植えの一月前、処女が山籠りをするので、ツツジの枝をかざしてくるのがそのしるしである。これが「早処女(サウトメ)」となって、田植えの行事をするのだ。これ以前に行なわれるのが盆釜といわれる式で、すなわち、早処女になる以前の成女戒である。これは別のものか同じものかわからないが、私は、年に二度行なわれたものと考えている。
盆釜にこもる間は短くなっているが、実は長いものであった。卯月の山ごもりも同じで、近頃ではわずかに一日しかこもらない。こういうふうに段々短くなってきているが、一日では意味がわからないものである。みそぎをするときは一日でよいが、神に仕えるときは長かったもので、それを形式化して行なっているのであろう。
室町から徳川へ入る頃合いから少女の間で盛んになったものに「小町踊り」がある。男の方に「業平踊り」があるから、それに対立したものであるといわれているが、それとは別なものである。小町踊りは、少女らが手をつないで行って、ある場所で踊る踊りである。私が大阪で育ったころ、まだ遠国(おんごく)歌を歌って、小娘たちが町を練り歩いていた。これは盆の踊りの一つである。小町踊りと言うのがこの総名で、この踊りのために日本の近世芸術は一大飛躍を起してきたのだ。そうして、徳川初期の小唄の発達・組み歌の発達とかなっている。娘たちの盆釜の行事は、こうした種々のものを生み出してきた。
四
一方、魂祭りの方面では、ちょうどそのころ、念仏踊りがある。魂祭りは、死んだ近い親族が帰ってくるから魂祭りであるというが、これだけでは、近頃の考えである。以前は、その帰ってくる魂の中に、悪い魂も混って戻って来ることを考えていた。そのために、悪霊を退ける必要があったのだ。この悪霊退散のための踊りが、念仏踊りである。春の終わり、夏に先だって流行する疫病を予防するための踊りであったが、その元は、稲虫を払う踊りである。
日本人はすべて物を並行的に考えるのが例で、田に稲虫が出ると、人間にも疫病が流行すると考えていた。この踊りのもとは、平安朝になって俄然発達してきた「鎮花祭」から起っている。「花が散るころには悪疫が流行するから、花鎮めの祭りをする」というのは平安以後の考えで、もとは、花を散らせまいとする、花の散ることを忘れさせるための踊りであった。これが平安朝になると、疫病退散のための踊りになった。
日本の踊りは宗教を生み出す源となることがあるが、念仏宗も鎮花祭の踊りから発達して来ているのだ。鎮花祭の踊りをする中に、その興奮から、一種の宗教的自覚をおこして念仏宗が出て、その径路に当って念仏踊りが現われたのであった。
念仏踊りは、このように段々意味が変ってきているが、根本には、魂にかかわる祭りだという考えがなくなってはいない。念仏踊りの直接の前の形は魂祭りではあるまいが、しかしそれ以前、平安朝から、あるいは奈良朝のころにも、この魂祭りを考えていたことは見える。
村の精霊が帰ってくる時期に、ちようど念仏踊りを行なった。念仏聖が先に立って踊るときもあり、念仏聖をやとってするときもあり、村人自身がするときもあり、あるいは村全体が念仏聖の村であることもある。この念仏聖が鉦(かね)を叩いて新仏の家に立って踊り、精霊の身振りや、となえごとを唱えて歩いた道行き芸が本筋をなしている。途中のある場所で演芸をするのはまた、歌舞妓狂言の一部を発達させている。
出雲阿国の念仏踊りは、ほんとうのものであったか否かは疑はしい。歌舞妓の草子を見ても、阿国のは念仏踊りの部分がわずかで、享保のころから、念仏踊りはすでに小唄踊りに変ってきている。この道行き芸が、実は盆の踊りの根本である。道を歩きながら、鉦を叩いて、新盆の家の庭で輪を作って踊る式は、神祭りと同一で、月夜の晩に、雨傘をさしたり、踊りの中心に柱をたてたりする。神を招くときには、中央に柱をたてて、そのまわりを踊ってまわるのが型である。この神降しの様式を念仏踊りは採り入れているのだ。出雲の須佐神社の念仏踊りを見ても、その中心には傘のように竹を割ったものをたてている。盆踊りを歌垣の流れであるというのは全く誤りで、勝手な想像にすぎない。男と女とがよれば、その結果、歌垣の終わりのようになるのは当然である。
盆踊りの直接の原因は、だから、念仏踊りであることは事実だ。行なわれる時期も色々あり、踊り方にも色々あって、道を歩いて踊って行く踊り、たとへば阿波の徳島の念仏踊りはその代表的なもので、伊勢踊りと同様である。それから神を迎えてくる道中の踊り、すなわち伊勢踊りが、七夕や盆の踊りの中へ織り込まれてきた。これだけの要素は、従来の盆踊りの中に、その形式を忘れることができないものである。要するに、それは盆釜から生まれて来た小町踊りと、七夕と同一の伊勢踊りと、根本の念仏踊りとの三要素があるのだ。
中昔のころには、盆という時期は、死人の魂が戻ってくるとともに、無縁の亡霊もやってくると考えた。そのため、家では魂祭りをし、外では無縁の怨霊を追ひ払わねばならぬ。この考えが変化して、盆のように、精霊も中一日いるのみで、追い返されてしまう。少しでも亡霊を嫌がるそぶりを見せると、また戻ってくると考えた。戻られると厄介だから、名残惜しい名残惜しいという意味を口には唱えるが、実は嘘で、さう言いつつ追い払うのである。これは、雛流し・七夕流しにつき添うた型式である。もちろん、その他の無縁の精霊・悪霊をも一緒に払い捨ててしまうのである。
こう見て行くと、複雑な盆踊りの形が簡単になってくる。私の盆踊りに対する考えは、簡単ではあるが、大体以上のようなものである。