エイプリルフール

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エイプリルフール(April Fools' Day)は、「万愚節(All Fools' Day)」とも呼ばれ、4月1日には罪のない嘘やいたずらを行なってよいというものである。英語では「第4の月のバカ(fourth-month dunce)」という別名もあり、フランス語ではポワソン・ダヴリル(poisson d'Avril)すなわち「四月の魚」と呼ばれる。

この風習の起源は不明である。「新暦採用によって元日が移動したことによって生まれた」というような説は、いずれも否定されている。

エイプリルフールの風習

エイプリルフールは西洋全体にみられたが、現在では世界中に広まっている。誰かに存在しないものを探させて無駄足("fool's errand"=「馬鹿のお使い」)を踏まさせること、いたずらをすること、おかしなことを信じさせようとすること、などが行なわれる。

フランス人は4月1日を「Poisson d'Avril(ポワソン・ダヴリル)」すなわち「四月の魚」と呼ぶ。フランスの子供たちは、魚の絵を級友たちの背中に貼り付け、いたずらが発覚したときには「四月の魚(ポワソン・ダヴリル)!」と叫ぶ。

なお、「4月1日の「午前中」のみがエイプリルフールの嘘をついてよい時間帯である」と信じる人もいるが、それはイングランド(やアイルランド)のみであり、世界的にはそうではない(すなわち4月1日いっぱい許される)地域が大半である。英国でこのような条件が追加されたのは、ホッグ祝節の風習が取り入れられたからであると考えられる(後述)。

インターネット時代においては、毎年4月1日に大企業のポータルサイトから個人ウェブサイト・ブログ等に至るまでこぞってエイプリルフールを楽しむのが定例となっている。特に日本では、大々的なエイプリルフールのネタはインターネットによって爆発的に拡大したと言ってもいいだろう。その最たるものが円谷プロによるものなどである。

当サイト管理人も例年エイプリルフールネタを展開している。

ただし、2011年のエイプリルフールは、大震災の影響を受けて全体に自粛ムードならびに冗談を楽しむ心の余裕がなかったために、全体に盛り上がりに欠けるものとなった。

エイプリルフールの起源

文化史研究者にとってのエイプリルフールの謎とは、エイプリルフールについての詳細な言及(ならびにこれについての関心)が18世紀になってようやく現われるということだ。しかしこの時点で、この習慣はすでに北部ヨーロッパ全域に確立してしまっており、非常に古い風習であるとみなされてしまっていた。この伝統は、書かれた記録には少しも言及をもたらすことなく、どうやってヨーロッパの多くの文化圏に採用されていったのか?

エイプリルフールへの言及は、1500年代には一応みつかる。しかし、これらの初期の言及はまれであって、しかも内容が曖昧かつはっきりしない傾向にある。シェークスピアは16世紀末から17世紀初めに執筆していた人物であり、チャールズ・ディケンズJr.が言うように「馬鹿者を好んでいた」作家であるが、にもかかわらず、シェークスピアはエイプリルフールについては何も触れていない。

この伝統がどのように始まったかについては、多くの説が示されている。残念ながら、そのいずれもが説得力に欠ける。1708年、英国のアポロ(Apollo)誌に、ある記者が「エイプリルフールの習慣はいつにさかのぼる?」という質問を送ったが、その結論は今も得られていない。

暦の変更説

エイプリルフールの起源について最も流布されている理論は、16世紀のフランスの暦改革に関連するものである。

その説ではこのように述べられている。

――1564年、フランスは暦を改訂し、年始を3月末から1月1日に変更した。その変化に取り残され、古い暦法にしがみついて、3月25日から4月1日の間の週に新年を祝い続けた人たちに対していたずらが仕掛けられた。いたずら者がこっそりその背中に紙の魚を貼りつけるのだ。このいたずらの犠牲者は「ポワソン・ダヴリール(Poisson d' Avril)」すなわち「四月の魚」と呼ばれた――それがエイプリルフールのフランスでの呼び名として残り、こういう由来でこの伝統が生まれたのだ、というのである。

一見すると、暦の変更説は、エイプリルフールの起源について理論的な説明となっているようにみえる。しかし、詳細に暦の変更についての歴史を詳細に調べるならば、この説は受け入れがたいことが判明する。

ユリウス暦

ユリウス暦は紀元前46年にユリウス・カエサルによって制定され、1月1日が年始となっていた。しかし、キリスト教が欧州全体に広がるにつれて、クリスマスやイースターなど神学的にさらに重要な日に元日を動かすという「暦のキリスト教化」が行なわれた。いくつかの国では1月1日を使い続け、キリストの割礼の日付だという理由付けがなされた。その結果、1500年代にはヨーロッパの暦法はひどい状態になっていた。ユリウス暦でのズレにより太陽年と暦年のズレが生じていただけではなく、国によって違った日に一年が始まることとなっていた。

フランスでの多くの地域では、少なくとも14世紀からイースターを年始としていた。イースターの日付が月の周期と結びつけられていたために毎年その日付が変わるということから、さらに混乱の種となっていた。ときには、同じ日付が一年に二回起こることさえあった。

しかし、フランス人は法律上、また統治上の目的のために、主としてイースターを年始として用いた。ローマの習慣に従った1月1日は、伝統的な年始として広く認められており、それは贈り物を交換しあう日となっていた。

16世紀の改革

イースターの日を年始とすることは、実用上大きな不便を引き起こしていた。そこで1500年ごろ、フランスの多くの人たちが暦年の年始を1月1日とし始めた。たとえば、16世紀初めのフランスの本では、1月から3月に発行されたものにおいて、両方の日付の形式が併記されているのが普通である。16世紀中頃までに、1月1日に始まる暦法がフランスで広く使われていた。

1563年、国王シャルル9世は1月1日を年始とする勅令を出した。これにより、すでに民間で定着していた方式が法的にも採用されたのである。この勅令は1564年12月22日、フランス議会において法律として成立した。

18年後の1582年、法王グレゴリウス13世は全面的な暦改訂を命ずる教皇勅書を発した。グレゴリウスの改革では、年始を1月1日に移動し、閏年システムを導入し、暦のズレを修正するために1582年10月から10日間を削除することなどが含まれていた。ローマ教皇は各国政府にこの改革を受け入れさせる権力を有していたわけではないが、キリスト教国にはこの改革を促した。上述のとおり、フランスはすでに1564年に年始を変えていたが、さらにこの改訂も受け入れた。

(エイプリルフールの歴史について書かれたものの多くが、フランスが年始を移動させたのはグレゴリウス暦改訂を受け入れた1582年だけであると誤って記している。たとえば、このように。
――1582年、法王グレゴリウス13世は、古いユリアヌス暦に代わる新しい暦(グレゴリウス暦)を公布した。新暦では、元旦が1月1日に祝われることになっていた。この年、フランスはこの改良暦を採用し、元旦を1月1日に移動した。通説によれば、多くの人々が新しい日付を受け入れたり学んだりすることを拒否し、4月1日に元日を祝い続けた。それ以外の人たちはこれらの伝統主義者をからかい始めた。伝統主義者たちに無駄足を踏ませたり、ウソを信じさせて騙そうとするようになったのだ。そしてついに、この風習がヨーロッパ中に広がった――。
だが、すでに1564年に年始は変わっていたのである。)

この歴史を念頭に置いたとき、暦法変更説はエイプリルフールの日の起源についての説明としては問題があることが明確となる。1月1日への移行は、フランスでは突然のものではなかった。それは1世紀に及ぶゆるやかなプロセスであった。そして、移行前にも、フランスの新年は4月1日と特につながりがなかった。イースターは4月1日というわけではない。

英国の暦法改訂

暦の変更説を英国に当てはめるのであれば、もう少し真実味を帯びてくる。年始の日を3月25日(聖母受胎告知の日、お告げの日)としていたのは、フランスではなくイギリスだからである。そこから1週間の祝祭週の最終日は4月1日となる。実際、暦の変更説が最初に見られる印刷物は1766年のものであり、これは英国の状況について書かれたものである。1766年4月の「ジェントルマンズ・マガジン(Gentleman's Magazine)」誌記者はこのように記している。

「この王国じゅうに広まっている奇妙な風習、すなわち4月1日に他の人をかつぐというのは、ある意味、かつて一年が、我らの主の顕現の日とされる3月25日に始まっていたということから生まれたものである。
我々と同様、ローマ人は新年の始まりに8日間の祝祭を開いた――その祝祭は8日目に終わり、その初日と最終日が重要であった。それゆえ、4月1日が3月25日から数えて8日目となり、つまり、その日は聖母受胎告知の祝祭と新年の始まりに当たる祝祭の締めの日であった」

英国が1月1日に一年が始まるように変更したのは、1752年のみである。このときまでにすでに、エイプリルフールはすでに伝統としてしっかりと確立していた。したがって、暦の変更による混乱が英国におけるこの習慣の起源であった可能性はない。もちろん、ジェントルマンズ・マガジン誌の記者が推測したように、4月1日に開かれた祝祭(3月25日の旧元日から8日目)がエイプリルフールの日に発展した可能性は残る。しかしながら、これは推測にすぎない。この習慣が英国から始まったという説得力ある証拠がまるで欠けているからである。エイプリルフールの日に関する最も古い明確な文献によれば、エイプリルフールが実際に始まったのはヨーロッパ大陸であると述べられており、大陸側がエイプリルフールの起源であることを示唆している。

したがって、「暦の改訂による混乱がエイプリルフールの起源となった」という説には根拠がない。

古い文献記述

この風習がどこに起源を有するかについて、エイプリルフールに関する18世紀以前の文献が手がかりとなる。残念ながら、これらの言及の多くはあいまいであり、その意味もはっきりしない。

1392年:チョーサー

エイプリルフールについておそらく最古の言及となるのが、チョーサーの作品であるとされている。ただし、この言及はあまりにも曖昧で関係性が明白ではないため、エイプリルフールの風習を描いた史料としては価値が認められない。

1392年ごろ書かれた『カンタベリー物語』の「尼院侍僧の話」で、虚栄心の強い雄鶏チャンティクリアがキツネに騙され、食べられそうになってしまう。語り手は、それが起こったときをこのように語る。

When that the monthe in which the world bigan
That highte March, whan God first maked man,
Was complet, and passed were also
Syn March bigan thritty dayes and two
世界が始まった月、
すなわち3月、神が最初に人を作ったとき、
それが終わって、同じく過ぎて
3月が始まってから、30日と2日

この記述は矛盾を来たしているようにみえるため、チョーサー研究者の間でも議論を呼んだ。この出来事は3月が終わってから32日後(すなわち5月3日)に起こったのか、それとも3月が始まってから32日後、すなわち4月1日に起こったのか? もし後の解釈が正しいなら、この物語はエイプリルフールに起こったのであり、それはばかな雄鳥とずるいキツネの物語にふさわしく思われる。チョーサーは、いたずらや愚かな振る舞いがこの日に結び付けられているという伝統に基づいて、物語を4月1日に設定し、意図的に日付を選んだということになるのだろうか?

たいていのチョーサー編集者はそう考えない。この部分の一般的な解釈は、チョーサーが5月3日を意味していたというものである。そこで、編集者は「3月(が終わってから)」と読めるようにテキストを改編している。ただし、歴史家ピーター・トラヴィスは、チョーサーは正確な日付を示すつもりなど全くなく、中世哲学の言葉遣いをからかうためにややこしい言葉を意図的に使ったのだ、と論じた。

チョーサーの意図がどうであれ、これら数行によって4月1日にいたずらを行なう習慣が念頭にあったと結論づけることはできない。

1508年:エロワ・ダメルヴァル(Eloy d'Amerval)

次にエイプリルフールに言及した可能性があるのは、フランスの聖歌隊指揮者・作曲家であるエロワ・ダメルヴァルが1508年に書いた詩である。この詩のタイトルは、"Le livre de la deablerie"と名づけられている。

音楽史家以外の人がこの詩に興味を持つとすれば、 “maquereau infâme de maint homme et de mainte femme, poisson d’avril.”という詩句が含まれているということだけである。

「poisson d'avril」(ポワソン・ダヴリル=四月の魚)は現在、エイプリルフールを指すフランス語である。しかし、ダメルヴァルがこの言葉を使って4月1日について述べたかどうかははっきりしない。この句は、単にバカな人を意味しているだけかもしれないのである。

1539年:エドゥアルド・ドゥ・デネ(Eduard de Dene)

フランドルの作家エドゥアルド・ドゥ・デネは1539年にコミカルな詩を発表した。これは、結婚式の準備を手伝わせるふりをして、4月1日に使用人を馬鹿馬鹿しいお使いに送って右往左往させることをたくらんだ貴族について書かれている。使用人は、自分になされていることが4月1日の冗談であることを理解する。この詩のタイトルは“Refereyn vp verzendekens dach / Twelck den eersten April te zyne plach.”である。これは後期中世オランダ語で「4月1日のお使いの日のリフレイン」というような意味になる。それぞれの節の終わりの行で、使用人は「馬鹿者のお使いをさせようとしてるんじゃないでしょうね」と言う。

ここでようやく、4月1日に悪ふざけを行なう習慣についてのかなり明確な言及を見ることができる。したがって、エイプリルフールが少なくとも16世紀にさかのぼるということは言えるだろう。この作品やフランスの曖昧な話をもとに、歴史家は、エイプリルフールがヨーロッパの大陸北部に起源を持ち、それから英国に広まったはずだと考えている。

1632年:ロレーヌ公の脱出

伝説によれば、ロレーヌ公爵とその妻は、ナントで牢獄に入れられた。二人は小作農の姿に変装し、正面の問を歩いて出て行ったのが1632年4月1日だった。その脱走に気付いて、見張りに告げた者がいた。しかし、見張りは「poisson d'Avril(つまりエイプリルフールの冗談)」だと思いこんで笑い飛ばした。そのために公爵と妻は脱走できたのである――という。

この伝説が事実であるかどうかは不明である。

1686年:ジョン・オーブレイ(John Aubrey)

イギリスの骨董研究家ジョン・オーブレイは、有名な習慣や迷信についての多くの記述を集めていた。それは『ジェントリズムとユダヤ教の残滓(Remains of Gentilism and Judaism)』というタイトルのよくできた本としてまとめられた。1686年、オーブレイはこう書いている。「Fooles holy day. (愚聖節) これは4月1日にみられる。それはドイツのどこでも行なわれている。」 集められたメモは死後に出版されたものである。

すなわち、17世紀末までには、エイプリルフールは英国にまで確かに広まっていた。

1698年:ライオン洗い

1698年4月2日付け "Dawks's News-Letter"(英国の新聞)は、「昨日は4月1日で、ライオンが洗われているのを見るために塔堀(Tower Ditch)まで行った人たちがいた」と報じている。真に受けやすい犠牲者を騙して、ありもしない式典である「ライオン洗い(Washing the Lions)」を見るためにロンドン塔まで行かせるのは、人気の高いいたずらだった。このいたずらがエイプリルフールに行なわれることは伝統になっていた。その例は、19世紀中期にも見られる。

18世紀にはエイプリルフールについて言及した史料は多くあり、ヨーロッパ中に広まっている。

再生祭説

世界のほとんどすべての文化において、冬の終わりと春の復活を祝うために、年の最初の月に何らかの祝祭がある。人類学者はこれを「再生祭(renewal festival)」と呼ぶ。それは騒乱や無秩序を儀式化したものである。変装もよくある。友人や見知らぬ人たちにいたずらを仕掛けることもある。社会秩序は一時的に転覆される。使用人が主人をこき使うこともできるかもしれない。子供が親や教師といった権威に対抗するかも知れない。しかし、無秩序は厳密な時間枠の中に縛られるのが常で、緊張は笑いと喜劇で緩和される。社会秩序が象徴的に混乱されるが、それから元に戻り、社会の安定性を再確認する。ちょうどそれは冬の寒い季節が生物学的な環境を一時的に脅かすものの、生活のサイクルは続き、また春が来るのとおなじである。

エイプリルフールは再生祭のすべての特徴を持っている。ふつうなら許されないふるまい(ウソ、いたずら、騙し)が一日だけ受け入れられ、そしてその混乱は厳密な時間枠の中に縛られる。伝統的に、1日の正午より後にはいたずらは行なわれない。社会の階層と緊張は危険にさらされるが、敵意も笑いによって沈静化される。

エイプリルフールについての考察においては、エイプリルフールとその他の再生祭との類似性に言及したものが多い。多くの歴史家は、エイプリルフールは古代に行なわれたこのような祝祭から生まれたものであるという理論を打ち立てた。

だが、中世の祝祭から発展した伝統が(3月の終わりの元日祭のように)春分のころに行なわれることは非常にありそうなことではあるが、エイプリルフールとローマ時代の祝祭の直接の関係はありえそうにない。にもかかわらず、エイプリルフールの伝統がどの祝祭から生まれたかについては、意見は一致しない。以下は、エイプリルフールの起源となったとして言及されることの多い祝祭のリストである。

サトゥルナーリア祭(Saturnalia)

サトゥルナーリアは、ローマの冬の祝祭で、12月の終わりに開かれた。これは踊り、飲み、一般的なお祭り騒ぎである。人々は贈り物を好感し、奴隷は主人を支配しているようなふりをすることが許され、偽の王であるサトゥルナリキウス・プリンケプス(Saturnalicius princeps=無秩序の君主)がその日統治した。西暦4世紀にサトゥルナーリア1月1日の元日祭に変化しており、その慣例の多くはクリスマスのしきたりに取り入れられている。むしろこれはクリスマスの起源の一つというべきであろう。

ヒラーリア祭(Hilaria)

3月下旬、ローマ人はヒラーリア祭で、大地の女神キュベレーの息子アッティスの復活を祝った。ここでは祝賀や仮装が行なわれた。

ホーリー祭(Holi)

遠く離れてインドでは、ホーリー祭があった。これは色の祭りである。祭りの間、路上の参加者は色粉や色水を投げつけ合う。この祭日は、ヒンドゥーのパルグナ(Phalguna)の月の満月の日に開かれる(通常は2月の終わりか3月の始め)。

ルード祭(Lud)

ヨーロッパ北方には、ケルトのユーモアの神ルードを敬う古代の祝祭があった。同様に、ドルイド階層をからかう習慣もあった。

愚者祭(Festus Fatuorum)

中世のフェストゥス・ファトゥオールム(愚者祭)は、サトゥルナーリアから発展したものである。この日に祝祭の参加者は無秩序の君主を選び出し、教会の儀式をパロディー化したが、それは冒涜的な場合もあった。教会はこの風習を非難したが、頻繁に禁令が出されたにもかかわらず、根絶することはできなかった。これは5世紀から16世紀まで続いた。

英国の地域的な祝祭

英国(ブリテン)の地域で中世に行なわれたいくつかの祝祭は、エイプリルフールに似ている。ホック祝節(Hock-Tide, Hoke-Tide)はイースターごろに祝われた。男女が路上で見知らぬ異性を引き留め、お金を払わなければ解放しない。このお金は宗教的な目的のためにのみ使われることになっていた。様々な騒がしいゲームも行なわれた。シグシャグデーまたはシックシャックデー(Shig-Shag / Shick-Shack Day)は5月20に開かれた。祝祭の参加者は、帽子や折り襟にオークアップルの小枝を挟んでいた。チャールズ2世がクロムウェルの兵から逃れるためにオークアップルの木に隠れたため、王家への忠誠を示すために行なわれたことであろう。ただし、この習慣は異教徒の樹木崇拝に起源があると思われる。オークを身につけていない人は近寄って話しかけられ、からかわれるかもしれないが、それも正午までである。正午以降は「シグシャグ」を持つ義務はなくなる。

現在のエイプリルフールにおいて、英国のみ「嘘をついていいのは午前中のみ」という条件が追加されるのは、このホック祝節の風習に影響を受けていると考えられる。

神話的な起源

18世紀から19世紀の学者は、エイプリルフールが古代に由来するものであると考え、古代神話にその起源を求めようとしたこともあった。このような理論は決して広く受け入れられなかったが、エイプリルフールの議論では非常によく取り上げられている。

ローマ神話

ローマ神話の死の神プルートーンは、プロセルピナを誘拐して冥府でともに暮らそうとした。プロセルピナは穀物と収穫の女神である母ケレスに大声で救いを求めた。ケレスはプロセルピナを探したが、娘の声のこだましか聞こえなかった。ケレスが娘を捜したが見つからなかったことはローマ時代にはケレアリア祭(Cerealia)として祝われたが、これがエイプリルフールに行なわれる馬鹿者のお使いの古い形だという理論を立てる学者もいた。

キリスト教神話

聖書の伝統にその起源を求めることで、エイプリルフールをキリスト教化することは人気がある。たとえば、洪水が引いてしまう前に箱舟から鳩を送り出したというノアの失敗(つまり鳩は馬鹿者のお使いに送られたわけだ)にこの伝統を結びつけるものもある。第二の物語として、イエスがピラト提督からヘロデ王まで送り返されたときのことを記念しているという説もあった。「ピラトからヘロデまで人を送る」(Sending a man from Pilate to Herod)という句が誰かを愚か者のお使いに送ることを指す古い言葉だったということで、この紀元説の証拠とされることもしばしばだった。

各国起源理論

英国、ドイツ、オランダ、フランスにはそれぞれのエイプリルフール起源説がある。これらの説のいずれも、エイプリルフールの起源としては説得力に欠ける。しかし、4つの国でそれぞれ独自に起源を説明しようとしているということは、まさにこの伝統が多文化的な性質を持つことを象徴している。

フランス:暦の変更説/四月の魚説

フランス起源説(暦の変更による仮説)は上述のとおりである。これは、シャルル9世が年始を4月1日から1月1日まで移動する改暦を行なったときに、この習慣が生まれたというものである。4月1日に元日を祝い続けた人たちはからかわれ、いたずらをしかけられた。これが4月1日の馬鹿らしい振る舞いの習慣の始まりだというのである。この説は欠点があるにもかかわらず、世界的に、エイプリルフールの起源について最も人気のある説となった。

フランスにはまた、稚魚が孵化したばかりの4月始め、フランスの小川や川で見つかる大量の魚にこの習慣の起源を求める説もある。これらの稚魚は釣り針とルアーで簡単にだませた。そのために、フランス人はそれを「ポワソン・ダヴリール」すなわち四月の魚と呼んだというのだ。やがてこれが4月1日に人々をだます習慣となり、それによって愚かな魚の大漁を祝うこととなったという。フランスでは「ポワソン・ダヴリール」をエイプリルフールのいたずらを呼ぶ言葉として今も使っている。4月1日にはチョコレートの魚を送り合う風習もみられる。

英国:ゴタム伝説

英国の民俗学では、エイプリルフールはノッティンガムシャーにあるとされる伝説上の町ゴタム(Gotham)と関連づけられている。伝説によれば、13世紀、国王が足を置いたどんな道路も公有地になるという伝統があった。そのため、ゴタムの住民は国王ジョンが旅行の際に町を通っていくことを計画していると聞きつけたとき、幹線道路を失うことを望まず、国王が町に入ることを拒否した。国王はこれを聞いて、町に兵を送った。ところが、兵がゴタムに到着したとき、街の中にはバカなことをしているキチガイばかりがいた。魚を溺れさせようとしたり、屋根なしの柵で鳥をかごに入れようとしたり。これらのバカげた振る舞いはすべて演技であったが、国王はその策略に騙され、この町はあまりにもバカなので罰するに及ばないと宣告した。伝説に寄れば、そのとき以来、その策略を記念するためにエイプリルフールの日が始まったのだという。

ちなみに、バットマンが活躍するゴッサム・シティー(Gotham City)の名称はこのゴタムに由来する。

ドイツ:アウグスブルグ会議説

1530年4月1日、アウグスブルクで議員の会議が開かれ、様々な金融問題を検討するだろうと考えられていた。時間を考慮して、この会議は開かれないこととなった。しかし、会議が開かれるという方に賭けていた多くの投機家が金を失い、バカにされた。これが4月1日にいたずらを行なう風習の起源であるといわれている。

オランダ:デン・ブリル勝利説

1572年4月1日、アルヴァ卿に率いられたスペイン軍から、オランダの反乱軍がデン・ブリル(Den Briel)の町を占領した。この部隊の成功により、スペインからオランダが独立する結果となった。オランダの詩にこう書かれている。「Op 1 april / Verloor Alva zijn Bril」。訳せば「4月の1日 / アルヴァがめがねを失った」。「Bril」はオランダ語でめがねを意味するが、もちろんデン・ブリルという町の名前にもかけられている。4月1日のいたずらの風習は、デン・ブリルでの勝利ならびにスペイン軍指揮官の屈辱を記念するために始まったと主張されている。

ボスキン教授説:コンスタンティヌスとクーゲル

もう一つのエイプリルフールの起源説は、ボストン大学の歴史学教授ジョセフ・ボスキン(Joseph Boskin)によるものである。

ボスキン教授によれば、この風習はコンスタンティヌス帝の治世に始まったという。この時代、宮廷道化師たちの一グループが、ローマ皇帝に対して、自分たちならもっとよい帝国運営の仕事ができると申し出た。コンスタンティヌス帝はおもしろがって、クーゲル(Kugel)という名の道化師に、一日国王となることを許した。クーゲルはその日にばかげたことを要求するおふれを出させた。その習慣は毎年の行事となった。

「ある意味、それは非常に重要な日であった。この時代、道化師は本当に賢明な人々だった。ユーモアをもってものごとを全体的な視野でみることが、道化師の役割だったのである」とボスキン教授は語る。

この説は1983年、AP通信記事として配信され、多くの新聞に掲載されて衆目を集めた。ただ一つ、落とし穴があった。これは全部が全部、ボスキンのでっち上げた嘘だったのである。AP通信自身がエイプリルフールの冗談に騙されてしまっていたことに気付くまで、2週間もかかった。

参照