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2007年12月1日 (土) 00:03時点における最新版

志摩国(しまのくに)は、東海道の一国。西は伊勢国に接し、東および南・北の三面は海に臨む。東西およそ三里、南北およそ八里。この国はむかし国府を英虞郡に置き、答志・英虞の二郡を管轄し、延喜の制では下国に列す。明治維新の後、二郡を合わせて志摩の一郡とし、三重県に編入した。

国名

古事記伝

さて志摩は、もと伊勢のうちにあって、島々の多くあるところを分けて一国としたものであり、後までも伊勢に付随した国である。したがって、ここに島とあるのも、伊勢の海の島であって、すなわち志摩国である。

倭訓栞

志ま 国の志摩も島の意味である。古事記にある。続日本紀に伊勢答志郡とあり、伊勢を分けたという。よって伊勢島などという。あるいは、もと伊勢・三河の中間にあったが、海のために水没して、後、伊勢の東端を分割して志摩国としたというが、地形を見るとありそうな話である。畔乗のあたり、伊雑の浦に、数千尋の海底に鳥居があったという物語もその証拠となるだろう。

諸国名義考

志摩 和名抄に「志摩(シマ、国府は英虞郡にあり)」。名義は、ある本に志摩国風土記の逸文として引用したものとして「志摩は伊勢島の意味である。地を放ち海中に出た島である。後に国名となった」という。これは国体によって名付けたものであろう。この国の答志郡答志崎、海中に差し出て、三河国いらごが島と向かい合っているので、志摩の国というべき姿である。

志摩国旧地考

志摩 島津国ともいい、また伊勢島ともいう。

古事類苑での考察

 橘守部、神楽歌入文、弓立注にいう。「今考えてみるに、伊勢島とは志摩国のことである。志摩はもと伊勢に属していて、一島離れていたからこういうのである。だから、この神楽などのように、「伊勢島やいそらが崎」「伊勢島やたふしの浦に」などと詠むのはよい。中昔後の歌に「伊勢島や一志の浦」などと詠むのは間違っている。一志は雲津星合の浦、藤方、垂見あたりの郡名であって、もとより島国ではない」

 考えてみると、入文の弁説がもっともよい。ただし「一島離れていたからこういう」というのは間違っている。国名を志摩とは言っても、淡路・隠岐・佐渡のような離れ島の一国ではない。伊勢と、古くは紀伊国に接していた地続きの国であるが、管轄する島々が多くあるが故に、一国の号となったものである。

 先に引用した風土記抄に、「地を放ち海中に出た島」とあるが、島々の多い国体のおおよそを言ったものであるはずだが、そのようには聞こえず、実に離島が一国であるかのように思える誤った記載というべきである。

 また、諸国名義考の志摩の条に「これは国体によって名付けたものであろう。この国の答志郡答志崎、海中に差し出て、三河国いらごが島と向かい合っているので、志摩の国というべき姿である」とあるが、答志崎と伊良虞島と向かい合わせたとしても、島の国ということにはならない。このような地形は沿海の国に数知れず多くあるものだ。

志摩国の境界の変遷

今の地名でいうと、三重県の鳥羽市・志摩市だけではなく、さらにその西、南伊勢町、大紀町南部の錦地区、紀北町、尾鷲市全域までが志摩国に含まれていたのではないかと思われる。熊野市から南が紀州だったらしい。つまり、伊勢国の南の海に面したあたりは、もともと志摩国だったようだ。そして、志摩と紀伊は隣り合っていた。

天正10年(1582年)以後、紀伊の堀内氏と伊勢の北畠氏の実質支配下にあった村々がそれぞれ紀伊国牟呂郡と伊勢国度会郡に編入された。その傍証として、度会郡に伊勢路という地名があるが、伊勢に続く場所を伊勢路というのであって、伊勢の中に伊勢路があっては矛盾する(伊賀にも伊勢路があるが、これは正しい)。これはもともと志摩国だったのだ。

紀伊国昔時国界辨

 本国奥熊野の国境は、今は伊勢国と隣りあっていて、二江村錦浦(大紀町錦)が端だが、古くは志摩国と接していて、国境も大いに違っていた。今の国境は天正年中(1573.7.28~1592.12.8)以来のことである。寛永十九年(1642)の記録にこうある。「紀州と勢州の東の境目、長島の東にある荷坂峠(紀北町紀伊長島区と大紀町大内山の境)から、南は二鬼島浦(二木島湾)の近所堅ヶ崎(楯ヶ崎=熊野市と尾鷲市の境)、西は曽根村(尾鷲市曽根)まで、通り道十一里五町(約44km)、里数あわせて四十か村は、昔は志摩国英虞郡であったが、六十余年前、堀内安房守(新宮城主・堀内安房守氏善)の時代から紀州牟呂郡の一部となったと伝えられる」と。寛永19年から六十余年前は、天正十年(1582年)以前となる。(中略)

 したがって、古くは楯ヶ崎の山通りを境界として、曽根浦のいわゆる曽根太郎・曽根次郎の峠が国境であった。この西奥は、山が深くてほかに道がない。さて、この国境まではもともと伊勢の神領であって、国は志摩国であったが、多気の北畠家が勢力強大となっておおかたその旗下につくことになった。それを、後に錦浦までは堀内家が攻め取ってから紀伊国に入った。その東は北畠に従って、伊勢国度会郡の内となり、ついに志摩国と紀伊国とは離れてしまったのである。古い日本の総図には、紀伊国、志摩国と続いており、伊勢の南辺には海がない。

明治十三年 東京地学協会報告

国郡沿革考第二回 塚本明毅

志摩

 現在、志摩の地は、田圃合わせて1758町に過ぎない。このような狭い土地を一国としたのは、非常に疑わしいことである。よって史誌を考察し、古郷を調べたところ、その国境に大きな変化があったことがわかった。

  • 和名抄「田124町94歩、粒総1700斛、正籾1200石、救急料500石」
  • 捨芥抄「田4917町」

 計算してみると、米五升は一束より得られるから1700斛=34000束である。一段で稲50束を得るという制度に従えば、田124町から得られる稲は62000束に過ぎない。一町の租禾を22束とす制度によれば、34000束を収穫する田は、1545町の地である。とすると、和名抄は「百」ではなく「一千五百」の脱字だったのだろう。後世に至って増加して4917町の田を得る。したがって、捨芥抄の記するとおりとなる。これは国境が変化した証明である。

 紀伊続風土記の説に、「紀伊国牟呂郡の東北、曽根庄より東の古本(このもと)長島の地は、いにしえ志摩国に属していた。天正中、新宮の堀内安房守氏喜が長島城を取ってから後、ずっと紀伊に属す」という。

 そこで、相賀庄 古の本村 庄司氏の所蔵する古文書数通を引用して典拠としよう。

 (中略)下志摩国長島並合賀木本御厨内定補予所職事(後略)

 この文中の「木本」は、今の「古の本」である。古本村が現存している。合賀(あふが)は後に相賀と書くようになった。相賀庄は上里・中里・河内・船津・小浦・矢口などの諸村である。今はみな紀伊牟呂郡に属す(現在は北牟婁郡紀北町海山区相賀)。これは州境が変わって紀伊に入ったという第二の証拠である。

 和名抄英虞郡の下に甲賀、名錐、船越、道潟、芳草、二色、余戸、神戸とある。

  • 今、名切村(志摩市大王町波切)の西南24~25町(2.6~7km)に船越村(志摩市大王町船越)はあるが、非常に名切村に近く、一郷とすべき地ではない。
  • 今、伊勢の度会郡船越村(度会郡南伊勢町船越)は、甲賀村(志摩市阿児町甲賀)より西の方およそ5里(20km)を隔てている。これが船越郷である。
  • その西南およそ3里半に道方村(南伊勢町道方)がある。これが道潟郷である。
  • その西南およそ5里余に、紀伊の牟呂郡錦浦(度会郡大紀町錦)がある。これが二色郷である。
  • 同郡古の本(熊野市木本町?)・尾鷲(尾鷲市)の地が余戸・神戸であろう、と紀伊続風土記に論じられている。
  • 芳草だけは残る地名がないが、道方と長島の間には一郷が入る余地がある。古和村(南伊勢町古和浦)である。これを芳草郷とすれば、和名抄の順序にも合う。

 こうしてみると、英虞郡の古郷はみなはっきりし、伊勢に入るものが3郷、紀伊に入るものが3郷である。これが国境の変遷を示す第三の証拠である。

 また、伊勢国船越村の西方に伊勢路村がある。道方村の西にも同名の地がある。これは伊勢に通ずる路であるがゆえにこの名前なのである。伊賀国阿保村(伊賀市阿保)にも伊勢地村がある。伊勢の一志郡垣内村(一志郡白山町垣内)に通ずる道である。もし、この地が昔から伊勢国ならば、どうして伊勢路という名前であっただろうか。これが国境の変遷を示す第四の証拠である。

 また、伊勢国度会郡の古郷名を検討すると、その十二郷はみなはっきりしていて、すべて北方にある。その南方の地は、唯一、陽田(ひなた)郷だけしかない。これは南方沿海の地が、もともと伊勢に属していなかった証拠である。

 今、その地勢を考えると、朝熊山(伊勢市・鳥羽市)の山脈が西南に連なって東宮山(南伊勢町東宮?)に至って伊勢の地との境目となり、さらに今の紀伊の牟呂郡八鬼山(尾鷲市)に至る。これが昔の志摩国であることは疑いない。

志摩1.gif志摩2.gif志摩3.gif

建置沿革

  • 島津国造 志賀高穴穂朝(成務)
    島は志摩国、津は助辞である。
  • 国府を英虞郡に置く。
  • 建武中興、北畠顕能、伊勢国司をもって本州を兼知する。州の豪族、橘氏は答志郡鳥羽城にあり、九鬼氏は答志郡波切にいる。みな北畠氏に属す。
  • 橘氏、相伝えて宗忠にいたり嗣子なし。鳥羽を女婿九鬼嘉隆にあてがう。
  • 永禄の末、北畠氏滅び、嘉隆、信長に属す。信長、本州を賜う。
  • 関ヶ原の合戦で嘉隆は西軍に属す。子・守隆東軍に従い、本州を領する。
  • 寛永年間、子久隆、摂津三田に移封され、内藤忠重がこれに代わる。その孫忠勝に至って収封される。後、土井利益、松平乗邑、板倉重治、松平光慈、それぞれ封を受ける。
  • 享保年間、稲垣昭賢これに代わり世襲。
  • 王政革新、鳥羽県を置き、さらに廃して度会県から兼治する。

  • 答志 タフシ
  • 英虞 アゴ

日本の旧国名

これらの項目の情報は主に『古事類苑』地部1~2を参考にしている。