山城国
山城国(やましろのくに)。もと「山背」「山代」「開木代」などの時を用いていたが、桓武天皇の延暦13年(794年)、改めて「山城」とした。これは地形によるものである。東は近江国に接し、西は丹波国・摂津国に至り、南は伊賀国・大和国・河内国、北は丹波国に接し、東西およそ6里、南北およそ15里。
この国は、むかし国府を乙訓郡に置き、乙訓・葛野・愛宕・紀伊・宇治・久世・綴喜・相楽の8郡を管轄していた。仁明天皇の時代、勅して畿内の第一班とし、延喜の制では上国に列する。明治維新の後、新たに京都市を設け、京都府に一市八郡を治めさせた。
京都は、葛野・愛宕の二郡にまたがる。遷都は桓武天皇のときであった。
国名
日本紀略
桓武 延暦十三年十一月丁丑、詔、(中略)この国は山河襟帯、自然に城をなす。この形勝によって新号を制すべし、山背国を改め山城国となすとのたまう。
松の落葉
山城国は「やまきのくに」といっていたこと
日本後紀一の巻、延暦十三年十一月のところに「この国は山河襟帯、自然に城をなす。この形勝によって新号を制すべし、山背国を改め山城国となすとのたまう」とあるので、山背国(やましろのくに)の名を山城国(やまきのくに)と変えられたのである。源順朝臣など、新号とあるのをどのように考えられたのか、文字のみ変わったものとして和名抄に「山城(ヤマシロ)」と記されたのは、大変な間違いである。この抄の郡・郷の名前は、その当時の人のいうとおりに記していて、住吉(スミヨシ)と書かれたようなものが昔と違っているのは他にも多いのだが、これらをそう書いてはならないのであって、延暦の帝のお定めと違ってしまう。この間違いから始まって、今の世では「城」を「しろ」という。城という文字は、日本書紀には「き」と訓に読み、また「さし」とも読むが、「しろ」とよむのは古書に書かれていない。山城国の文字は「やまきのくに」と読むのが正しいのだ。しかし、国の名などは誤りであっても長く言い慣れてしまうと、今さら改めることもできないものである。
倭訓栞
やましろ 日本紀に山背と書き、大和国の北にあることから名とする。延暦中に山城と改めさせられたのは、国の形勢によるものである。山代とも書かれるのは訓を借りたものだ。万葉集に開木代(やましろ)と書かれるのは、意味をもって読んだものである。杣を「そま」と読むようなものである。大和本紀に、すべて材木を採るところを杣人の言葉で「山開(やましろ)」と言うので、山城も材木を採ったところかと見える。雍州と称するのは、中国の洛陽が雍州にあるためである。俗に山にある城をいうときには、しを濁る(やまじろ)。
古事記伝
山城国造、名義は書紀に「山背」と書かれる字の意味(うしろのうを省く)である。この国は大和国の北方の山の後ろだからである。
国名考
山城 仁徳紀歌に夜莽之呂、和名抄訓同
考えてみるに、山城の字は古くは山背と書き、また山代と書く。延暦十三年十一月丁丑、詔してこれを改めた。山城の言葉は山場である。山はヤマであり、隈曲が重なる場所を訓じてシロ、シコロという。シロはなわしろのシロであり、平坦な場所をいう。この国は山間にあって平坦地であることによる名である。神名式には、丹後国丹波郡稲代神社があり、これは地名を稲田とする。すなわち稲場(イナシロ)の意味である。場所についてこう呼ぶものはこれと同じである。和名抄には、加賀国江沼郡山背郷、阿波国那賀郡山代郷などの名があり、また山間の場所の地であろう。また、出雲国意宇郡山代郷山代神社等もある。風土記を見ると、山代彦命がここにおり、ゆえに山代と名付けるという。あるいはいう。山城は山背なり、大和の山背にあるためにいう。今、その地を調べると、二国の間に山がないとはいえないが、あるのはみな丘であって険しくない。そうであれば、山背の背は古い仮字であって、背後の背ではないことは明らかである。
建置沿革
- 山代国造 橿原朝(神武)御世、阿多根命を山代国造となす。
- 山背国造 志賀高穴穂朝(政務)御世、曽能振命をもって国造に定め給う
- 山背国として建国。国司は相楽郡甕原。
- 延暦十三年(794年)十一月詔、山背国を改めて山城国となす。このとき遷都、民みな謳歌し、異口同辞、平安京と号す。皇都を葛野・愛宕2郡の地に定め、左右京職・東西市司を置く。また国司あり。
- 延暦十六年(797年)八月、国司を長岡京の南の乙訓郡に移す。それまで葛野郡にあったが、地が狭かった。
- 承和三年(836年)十月、前例を承け、畿内国次が大和国をもってその第一と処していたところ、勅して山城国をもってその第一と処すとす。
- 貞観三年(861年)六月、行幸が少ないために壊れつつあった乙訓郡河陽離宮(山崎)に国司を移す。
- 鎌倉幕府成立により京都守護を設け、北条氏執権の時代には南北六波羅探題を設置して、京畿・山陰・山陽・南海諸州の政治・刑罰を兼掌させる。
- 建武中興、大内を造営し、省・司諸制を旧式に復す。
- 足利尊氏が反し、後光明天皇を擁立し、将軍府を室町に開き、国政をとる。
- 応仁以後、天下大いに乱れ、永禄中、三好・松永の群党が将軍義輝を弑し、淀・勝竜寺の諸城に拠る。
- 天正の初め、織田信長がことごとくこれを平らげ、所司代を京都に設ける。
- 信長弑せられ、豊臣秀吉が代わって国権を握り、聚楽第および伏見城を建てて京都を守る。
- 豊臣氏滅び、徳川氏また所司代を置き、二条城を築き、山城・大和・丹波・近江の政治・刑罰を統率させ、伏見に奉行を置き、松平定綱を淀に封じる。
- 享保中、稲葉正知がこれにかわって世襲。
- 明治維新、所司代および伏見奉行を廃す。
- 明治二年、乗輿東遷し、留守官を置き二条城を府とする。淀藩を廃し、留守官を府に併合する。
郡
- 乙訓郡 ヲトクニ
- 〔古事記伝二十五〕弟国は和名抄に「山城国乙訓郡(おとくに)」神名帳に「同郡乙訓に坐す大雷神社(大はおそらく火の誤り)」、書紀継体巻に「十二年、弟国に遷都す」など見える。(いにしえ弟国と云った地は、今の井内村・今里村のあたりである。井内村に乙訓明神の社あり。また、今里村にある法皇寺という寺は、昔は乙訓寺といったとある書にいう。宇治拾遺物語に「長岡の辺をすぎて、乙訓川のつらをすぐと思へば、また寺戸の岸をのぼる」云々という。寺戸村というのも今もある)
- 葛野郡 カドノ
- 〔古事記伝十二〕葛野は加豆怒(カヅヌ)と読む。中巻明宮(応神)段の大御歌に見える。書紀垂仁巻に「ただ竹野媛は形姿醜きに因りて、本土に返しつかはす。すなはち其の返しつかはさるることを羞ぢて、葛野にして、自ら輿より墜ちて死(みまか)りぬ。故、其の地をなづけて堕国といふ。今、弟国と謂ふは訛(よこなば)れるなり」とあるを思えば、いにしえは乙訓郡のあたりまでかけて広く葛野といったものであろう。(カヅに葛の字を用いたのは、クヅをカヅともいったからである。字音をとったのではない。後にカドノというのは、カヅの転じたものである。下総の葛飾は音をとったものであり、例が違う)
- 〔古事記伝三十二〕葛野は(中略)垂仁記を引いていったごとく、いにしえは乙訓のあたりをも葛野といったことがあるが、なお葛野・乙訓・紀伊3郡にわたって、その平原になっている地を広くすべて言った名であろう(延暦十三年十月の詔に、今京のことをも葛野乃大宮地とあり)。
- 愛宕郡 オタギ
- 紀伊郡 キイ
- 宇治郡 ウヂ
- 久世郡 クセ
- 綴喜郡 ツヅキ
- 相楽郡 サガラ/サウラク
日本の旧国名
- 畿内:山城国-大和国-河内国-和泉国-摂津国
- 東海道:伊賀国-伊勢国-志摩国-尾張国-三河国-遠江国-駿河国-伊豆国-甲斐国-相模国-武蔵国-安房国-上総国-下総国-常陸国
- 東山道:近江国-美濃国-飛騨国-信濃国-上野国-下野国-陸奥国-出羽国
- 北陸道:若狭国-越前国-加賀国-能登国-越中国-越後国-佐渡国
- 山陰道:丹波国-丹後国-但馬国-因幡国-伯耆国-出雲国-石見国-隠岐国
- 山陽道:播磨国-美作国-備前国-備中国-備後国-安芸国-周防国-長門国
- 南海道:紀伊国-淡路国-阿波国-讃岐国-伊予国-土佐国
- 西海道:筑前国-筑後国-豊前国-豊後国-肥前国-肥後国-日向国-大隅国-薩摩国-壱岐国-対馬国
- 蝦夷・琉球・台湾
これらの項目の情報は主に『古事類苑』地部1~2を参考にしている。