和泉国

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和泉国(いづみのくに)は五畿内の一。東は河内国に接し、西は海に面し、南は紀伊国、北は摂津に接する。東西およそ4里10余町、南北およそ6里。この国は元正天皇の霊亀2年(716)に河内国にある大鳥・和泉・日根の3郡を割いて和泉監を置き、孝謙天皇の天平宝字元年(757)さらに改めて国とした。

むかし国府を和泉郡に置き、大鳥・和泉・日根の3郡を管轄し、延喜の制では下国に列する。後、和泉郡を分けて和泉(泉とも)と泉南の2郡とした。明治維新の後、大鳥・泉2郡を合わせて泉北郡とし、また日根郡を泉南郡に合わせ、新たに堺市を置いて1市2郡とし、大阪府に治めさせた。

国名

倭訓栞

いづみ 和泉の国は清泉国府にあり、よって名とするという。和泉と書くのは、国郡の名に2字を使うようになってからのことである。

玉勝間

和泉の和字の事

国名のいづみを和泉と書く。和の字はどういう理由で添えられたのか。長年いぶかしく思っていたのをいろいろ考えると、まず「いづみ」というのは和泉郡があって、上泉・下泉という郷もあるので、そこから出た国の名であることは論ずるまでもない。こうして、その郷のうち、府中村というところに、今も和泉の井といって、非常にめでたい清水がある。そこに泉井上神社・和泉神社などもあって、式にも見える。しかし、並河氏が書いた和泉志を見ると、この和泉井を挙げて、その水清く甘いと記されていることを思えば、この清水は上代から大変清く、甘かったために「にぎいづみ」と呼んで「和泉(ニギイヅミ)」と書いたのを、里人などはただ泉とだけいいならわしていたのが広まって、名高い水なので京の人たちも「泉」とだけ言うようになって、郡の名前にも国の名前にもなったのだったが、すべて国郡などの名は2字に書くことになったため、文字には以前の名のごとく和泉と書くようになったのだろう。やまとの国も、言葉ではいつもはただ「やまと」とだけいうのに、文字には必ず大の字をそえて大和と書くのと同じたぐいである。したがって、和泉の和の字は、もと「にぎ泉」と言ったためだと思われる。

建置沿革

  • 古名に茅渟(ちぬ)といい(あるいは血沼、珍努とも書く)、河内に属す。
  • 神武天皇東征のとき、膽駒山(いこま)を越えて中州に入ろうとしてナガスネヒコに阻まれた。神武軍に利あらず、海へ出て船で行き、山城水門に至る。弟の五瀬命の矢傷がはなはだ痛み、水で血を洗い、血沼という地名となった。
  • 神宮皇后三韓凱旋し、小竹宮にあって、これを旧府という。
  • 霊亀二年(716年)三月、河内国の和泉・日根二郡を割いて珍努宮に供させる。
  • 霊亀二年四月、大鳥・和泉・日根3郡を割いて初めて和泉監を置く。府に霊水あり、地に清泉が多いことから和泉国と名付ける。
  • 天平十二年(740年)八月、河内国と併せる。
  • 天平宝字元年(757年)五月、旧によって国を分け、府を和泉郡に置く。
  • 天長二年(825年)三月、摂津国を割いて東生・西成・百済・住吉四郡を和泉国に編入する。
  • 天長二年閏七月、上記4郡の編入を停止し、摂津国に戻す。
  • 建久年間、佐原義連を守護職とする。義連が亡くなると、その公税はすべて上皇の熊野行幸費用として供される。
  • 建武中興で楠氏が守護となる。
  • 南北朝に至って南朝に直属する。和田正遠を岸和田に置く。
  • 南朝が衰えると山名時氏が取る。
  • 明徳年間、将軍義満が山名氏清を守護とし、堺津に築城させ、泉府と名付ける。
  • 氏清が敗亡すると、周防国の大内義弘が守護職を兼ねる。
  • 応永六年、義弘が戦死し、細川満元が守護職を兼ねる。
  • 細川政元の義子・高国と澄元が争い、大永年間に澄元の子・晴元が堺に拠って和泉を取り、家臣・三好長元を守護とする。
  • 天文の末、長元の子の三好長慶が細川晴元にそむき、和泉を略奪し、一族の十河存保を堺に置く。
  • 永禄の初、織田信長が三好氏を降し、国庁を堺南の荘に置き、松井友閑に治めさせた。当時これを政所という。
  • 天正年間、豊臣氏は庁を北ノ荘に移し、小西行長に司らせ、和泉国を豊臣秀長に賜う。秀長の血筋が絶えると、大坂に直属する。
  • 徳川氏の時、堺に奉行を置く。封を受ける者、岸和田(岡部勝宣)、伯太(渡辺吉綱)の二藩。
  • 明治維新で近江三上の遠藤氏が来て吉見に移り、三藩となる。やがてこれをすべて廃し、堺県を置く。

  • 大鳥 オホトリ
  • 和泉 イヅミ
    • 和泉 イヅミ
    • 泉南 センナン
  • 日根 ヒネ

日本の旧国名

これらの項目の情報は主に『古事類苑』地部1~2を参考にしている。