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その起源をたどると、クリスマスはキリスト教以前のローマの民間の祭りを受け継ぐ要素が大きく、極めて「異教的」な祭日である。常緑樹を飾り、贈り物を交換し、どんちゃん騒ぎをするという現代日本のクリスマスは、古代ローマのサトゥルヌス神を祭ったサトゥルナーリア祭の忠実な再現であるともいえる。 | その起源をたどると、クリスマスはキリスト教以前のローマの民間の祭りを受け継ぐ要素が大きく、極めて「異教的」な祭日である。常緑樹を飾り、贈り物を交換し、どんちゃん騒ぎをするという現代日本のクリスマスは、古代ローマのサトゥルヌス神を祭ったサトゥルナーリア祭の忠実な再現であるともいえる。 |
2008年12月22日 (月) 17:10時点における版
クリスマス(Cristmas、Xmas)は、一般に「イエス・キリストの誕生日を祝うキリスト教の祭り」と認識されている行事であり、12月25日がその日とされている。「聖誕祭」「降誕祭」とも訳される。しかし、イエス・キリストが12月25日に生まれたという証拠はなく、むしろ12月ではないことが明らかだとされている。
その起源をたどると、クリスマスはキリスト教以前のローマの民間の祭りを受け継ぐ要素が大きく、極めて「異教的」な祭日である。常緑樹を飾り、贈り物を交換し、どんちゃん騒ぎをするという現代日本のクリスマスは、古代ローマのサトゥルヌス神を祭ったサトゥルナーリア祭の忠実な再現であるともいえる。
目次
「クリスマス」という言葉
中英語ではChristemasse(クリーステマッセ)、古英語ではCristes mæsse(クリーステス・マッセ)であり、最古の記録は1038年にさかのぼる。
Cristes(クリーステス)は救世主(キリスト)を意味する。もともとはヘブライ語のマシーアハ(massiah⇒「メシア」)のギリシア語訳 Χριστός(クリーストス)から。これは「油を注がれた者」の意味である。古代ヘブライ国家で、王は即位の礼として頭に油を注がれた。従ってイスラエルの王を意味した。これが転じて、「イスラエルを救うために神が遣わすべき将来の王」の意味を持つようになる。キリスト教では、「人類の罪をあがなうために神が遣わした救い主」をクリーストスと呼ぶようになった。
masse(マッセ)はミサ(聖餐式)を意味する。もともとはラテン語のmissa(「解散」)が語源。ミサの最後に"Ite, missa est ecclesia"「行きなさい。集会は解散です」と言われたことから、「解散」という言葉がミサそのものを指すようになったという。
したがって、「クリスマス」とは「救世主の聖餐式」という意味を持つ。
Xmasという表記は、ギリシア語Χριστόςの頭文字であるX(キー)を使ったものである。また、オランダ語では同様にKerstmisと言い、これを略してKerstと称する。
他の言語による「クリスマス」
ラテン語の「natalis(出生)」を起源とする呼び方としては、フランス語のNoёl(ノエル)、英語のNoel(頭文字は大文字表記)、イタリア語のnatale、スペイン語のnavidad、ポルトガル語のnatalなどが挙げられる。
中国語では「聖誕節/圣诞节」であるが、台湾では「耶誕節」(耶蘇=イエスの誕生節)とも書く。
ドイツ語のWeihnachten(ヴァイナハテン)は「聖夜」の意である。
「イエスの誕生日」の歴史
イエスの誕生日は冬ではありえない
一般にイエスの誕生を祝うのがクリスマスだが、イエスがこの日に生まれたという事実はない。
聖書にイエスの生まれた日付についての記載はない。初期のキリスト教徒にとって、イエスの誕生日はそれほど重要なことではなかったようだ。四大福音書のうち、イエスの出生について触れているのが、マタイによる福音書とルカによる福音書である。しかし、いずれも日付についての記載はまったくない。
マタイによる福音書は、イエスの出生をヘロデ大王の治世としている。ヘロデ大王は紀元前4年まで統治していた。また、同書によれば、ヘロデ大王は「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(2:16)とある。したがって、当時イエスは2歳以下であったということになり、イエスの出生は紀元前6年~紀元前4年の間と考えられる。ただし、ヘロデ大王が幼児虐殺を行なったというのは史実とはいえない。
ルカによる福音書2:8に「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」という記述があるが、冬のイスラエルの寒さは厳しく、冬期に野宿をすることは無理である。イスラエルの気象学者によれば、2000年間にわたってイスラエルの気象はあまり変わっていない。現在のベツレヘムの12月の夜間の気温は平均摂氏7度であるが、氷点下になることも少なくない。したがって、イエスの出生は冬ではないと考えられる。
また、ルカによる福音書2:1~7にはこうある。
- そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなづけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。
ローマとユダヤの支配者は、移動のしづらい冬に人口調査をすることは現実的ではないと認識していた。一般的には、人口調査は収穫期の後の9月から10月ごろに行われていた。それは経済的に影響を与えることなく、天候もよく、道も乾燥していたからである。ルカによる福音書の記載が正確であるとすれば、イエスの本当の誕生日は秋ということになるだろう。
初期キリスト教で確定しないイエス生誕日
初期のキリスト教では、3月28日、4月2日、11月8日、11月18日などがイエスの誕生日とされた記録がある。
西暦200年ごろ、神学者であるアレクサンドリアのクレメンスは、エジプトのあるグループがエジプト暦パコン(Pachon)の月の25日に生誕を祝っていたと記している。これは5月20日に当たる。
- 「それゆえ、キリストの生誕からコンモドゥス帝(161~192)の死まで194年1か月13日である。そして、わたしたちの主の出生年だけではなく、日付も決定した人たちがいる。それによれば、アウグストゥス帝の第28年パコン(Pachon)の25日目に起こったというのである」(アレクサンドリアのクレメンス『Stromata』第1巻21章)
コンモドゥス帝の死の192年12月31日から194年1か月13日前は秋から冬の季節に当たる。クレメンスはさらに、イエスの受難と同じ春の季節であったという説も紹介している。
- 「イエスの受難については、非常に厳密に、ティベリウス帝の16年目パメノト(phamenoth)の25日に起こったという人たちがいる。パルムティ(Pharmuthi)の25日であったという人たちもいれば、パルムティの19日であったという人たちもいる。さらに、パルムティの24日か25日に生まれたという人たちもいるのである」
- (アレクサンドリアのクレメンス『Stromata』第1巻21章)
220年ごろに没した神学者テルトゥリアヌスは、アフリカ教会の祝日にクリスマスを取り入れていない。
セクトゥス・ユリウス・アフリカヌスは、221年に刊行した『年代誌(Chronographai)』において、イエスは春分の日に身ごもったと述べた。ローマ暦では春分点は3月25日であるから、出生は12月ということになる。
243年に発行された祝祭カレンダー「De Pascha Computus」では、イエスの誕生日を3月28日としている。
245年、神学者であるアレクサンドリアのオリゲネスは、「(ファラオやヘロデのような)罪人たちだけが」誕生日を祝うものであると述べた。したがって、クリスマスを定めることは異教的であると認識していた。
その後、1月6日が「公現祭(Epiphania)」とされるようになった。
- ヨルダン川でのキリスト洗礼の日を1月6日として定め、Epiphania(神性の出現の意味、ご公現の祝日)として祝った。1月6日はまた人間の出現の日にも当たることになる。ローマ帝国ではシーザー暦以降、1月6日が一年の始まりとされていたが、初期キリスト教徒は1月1日を天地創造の日としていた。聖書によれば人間の創造は6日目に当り、人間の出現は1月6日ということになる。人間の誕生とキリストの神性の授けられた日を重ね合わせたこの日は、長い間キリスト教会によって教会暦の元日とされていたのである。(福嶋正純・福居和彦「クリスマスの習俗」広島大学総合科学部『地域文化研究』8号より)
この時点では、1月6日はイエスが洗礼を受けた日となっている。そのとき救世主として世に現われたという解釈である。だが、「イエスは生まれながらにして救世主だった」という解釈が公式に採用されるに至って、イエスの生誕は1月1日とされるようになった。
もっとも、1月6日はギリシア人がディオニュソスの誕生日として祝い、エジプト人がオシリス神の誕生日として祝ってきた日だった。ただし、キリスト教徒は、イエスの生誕を祝うようになったとしても、神の生誕を祝うことは決してなかった。
12月25日生誕説の確定
それまでローマ帝国から弾圧されてきたキリスト教だが、4世紀には逆転劇を演じる。313年にコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認、392年にテオドシウス帝がキリスト教を国教化した。クリスマスが12月25日になったのはその中間の時期である。
4世紀前半の教皇ユリウス1世(337-352)が「イエスの生誕(クリスマス)は12月25日である」と布告し、その後はキリスト教国全体で大々的に祝われるようになった。
実は12月25日(前後)には、異教の祭日が重なっていた。布教拡大を狙うキリスト教は、異教の祭を自ら取り入れて利用しようとしたのである。
当時、以下のような「冬至前後の祭」があった。
- サトゥルナーリア……ローマ人の冬至の祭。12月17日~24日。農耕神サトゥルヌスの祭。常緑樹が飾られ、贈り物が交換され、どんちゃん騒ぎも行なわれた。ちなみに、サトゥルヌス(英語でサターン=土星)はサタン(悪魔)とは関係がない。
- 不滅の太陽神……3世紀初めのヘリオガバルス帝(218-222)は不滅の太陽神(ソル・インウィクトゥス)の誕生祭を12月25日と定めた。
- イシス祭……ギリシア・ローマでも崇拝されたエジプトの女神イシスの祭は冬至の時期に行なわれた。
- ユール祭……ゲルマンの祭。12月の10~12日間。収穫祭・豊饒祭の性質を持つ。雄豚(豊饒神フレイの神獣)を供犠として捧げて食べた。現在も、クリスマスの季節をユールと呼び、北欧ではクリスマスに豚肉(ハム)を食べる。
- ミトラス教……キリスト教最大のライバル宗教の最大の祭は、冬至祭ディエース・ナタリス・ソーリス・インウィクティ(「無敵の太陽の生誕日」)であり、これがまさに12月25日だった。これ以外にも、ミトラス教では太陽の日(ディエース・ソーリス)が聖なる日とされていたが、コンスタンティヌス帝はこれをキリスト教の安息日と合一させ、「日曜日は帝国の公の休日」と決定した。
- もしキリスト教が、なんらかの致命的な病によってその成長を止められていたならば、世界はミトラ信仰のものになっていたであろう。(エルネスト・ルナン『マルクス・アウレリウス』)
ミトラス教というのは、ペルシア起源の宗教で、生と死を司るミトラス神を救世主とする密儀宗教である。紀元前3世紀ごろに生まれて、小アジア(トルコ)で発展した。2世紀ごろにはローマ軍団を中心にローマ帝国のほぼ全域に広まった。ローマ帝国の国教として扱われたこともある。307年か308年には、ディオクレティアヌス帝が「帝国の恩人」ミトラス神に祭壇を捧げた。しかし、キリスト教を奉じるコンスタンティヌス帝が帝国を統一したので、ミトラス教は一時引き下がった。“背教者”ユリアヌス帝(361-363)はミトラス神の復活をもくろんだが、その死後、382年、グラティアヌス帝の勅令によってミトラス教は禁止された。こうしてミトラス教は迫害され、消滅したが、その最大の祭はキリスト教の中に「クリスマス」として残ることになったのである。
太陽が最も力を失う「冬至」。それは、太陽が復活し始める日でもあった。太陽神崇拝の冬至祭を強引にイエス・キリストの誕生日として祝うことにした結果、キリスト教は確かに異教徒を取り込むことに成功したが、それはまた、キリスト教の異教化(正確にいえば、イエスの説いたもともとの教えからの逸脱)を進めることにもなったといえる。
クリスマス・イブ
「クリスマス・イブ」は12月24日の夜である。英語のイブ(eve)は中英語evenの語末音が消失したものであり、eveningと同じく「夕暮れ」を意味する。決して「前夜」という意味ではなかった。
ユダヤ暦・教会暦では、深夜ではなく日没をもって日付の変更点とする。そのため、一日は日没から始まって日没に終わる。
現在通用している暦の「24日の日没から深夜」は、ユダヤ暦では「翌25日のはじまり」なのである。したがって、「クリスマス」はその夜の始まり、すなわち現代の暦の24日の日没に始まり、25日の日没で終わることになる。
「クリスマスの夜」すなわち「クリスマス・イブ」が前日にかかっているため、日本では「イブ」を「前夜」と解釈し、冗談で23日の夜を「クリスマス・イブ・イブ」と言ったりする例があるが、これは本来の語源からすると誤りである。