ヘンリー・リヴィングストン・ジュニア

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ヘンリー・リヴィングストン・ジュニア(Major Henry Livingston Jr.)(1748年10月13日-1828年2月29日)は、現代のサンタクロースの原型となった詩『聖ニコラスの訪問記 (クリスマスの前の夜)』の真の作者とされる人物である。

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経歴

ヘンリー・リヴィングストン・ジュニアは、1748年10月13日にニューヨーク州ポーキプシーで生まれた。リヴィングストン一家は、植民地時代から革命期のニューヨークの重要な一族であった。最初のリヴィングストン荘の領主ロバート・リヴィングストンの末の息子ギルバートから続くポーキプシーの系譜は、他の息子たちロバートやフィリップのよく知られた子孫ほど恵まれてはいなかった。しかし、 ギルバート・リヴィングストンの他の子孫、ジョージ・ウォーカー・ハーバート・ブッシュ大統領とその息子ジョージ・W・ブッシュ大統領のおかげで、この系譜は注目されるようになった。

 ヘンリーの兄弟、ジョン・ヘンリー・リヴィングストン師は12歳でエール校に入学し、オランダ改革派教会のオランダとアメリカの支部を合併させることができた。死の時点で、リヴィングストン師はラトガース大学学長であった。ヘンリーの父親と兄ギルバートはニューヨーク行政に関与しており、そしてヘンリーの父方の叔父(ピエール・ファン・コートランド)はニューヨーク州の最初の副知事であった。けれども法律畑がヘンリー一家の多くにとってなじみ深かった。義弟ジョーナス・プラット裁判官は知事になれなかった候補であり、その娘エリザベスの夫で合衆国連邦最高裁判事スミス・トンプソンもそうである。ヘンリーの孫シドニー・ブリースはイリノイ最高裁判所の裁判長であった。

 百科事典的知識と文学愛好で知られているヘンリー・リヴィングストンは、農場主であり、測量技師であり、治安判事であって、財政関係限定の犯罪と民事を扱う司法的地位にあった。1775年の革命軍に参加した最初のニューヨーク州人の一人ヘンリー・リヴィングストン少佐は、いとこの夫モントゴメリー元帥に従ってハドソン川をさかのぼってカナダに侵攻する戦役に参加し、新妻サラ・ウェリスと生後1週間の赤ん坊をポーキプシーの地所ロウカスト・グローヴに残していった。赤ん坊キャサリンは、現在、リヴィングストン少佐の知られている中で最初の詩のテーマである。リヴィングストンは仮差押え委員として戦争に関係していたので、この戦役後、英国人ロイヤリストたちの所有していた土地を私物化し、革命のためにそれを売却した。

 リヴィングストン少佐が詩や散文のほとんどを無名または「R」という筆名で発行したのは、サラが1783年に早逝したあとの時期である。サラの死の10年後、ヘンリーはダッチェス郡の政治家の娘で隣人の姉妹であったジェーン・パターソンと結婚した。二人の妻との間に、ヘンリーは12人の子供をもうけた。ポリティカル・バロメーター、ポーキプシー・ジャーナル、ニューヨーク・マガジンなどの多くの雑誌で、1787年以降、たまには特別な場合のために作った楽しい詩歌を出版した。最も有名な詩「聖ニコラスの訪問記 (クリスマスの前の夜)」は2000年まで、1844年に詩集にその詩を掲載していたクレメント・クラーク・ムーア(1779-1863)の作品とされてきた。リヴィングストンは1828年2月29日に死んだ。