「摂津国」の版間の差分
65行目: | 65行目: | ||
{{旧国名}} | {{旧国名}} | ||
− | [[category:旧国名| | + | [[category:旧国名|せつつ]][[category:近畿|せつつ]] |
2007年12月1日 (土) 00:02時点における最新版
摂津国(せっつのくに)は五畿内の一であって、東は河内国、西は播磨国、南は和泉国と海に面し、北は山城国・丹波国に接する。東西およそ12里、南北およそ9里ある。この国は初め浪速国(なにはのくに)と言い、後に津国(つのくに)と言っていたが、天武天皇の六年に初めて摂津職を置き、大宝の制で摂津職に津国を帯させた。
桓武天皇の延暦12年、職をやめて国とし、国府を西生郡に置き、住吉・百済・東生・西生・島上・島下・豊島・川辺・武庫・莵原・八部・有馬・能勢の13郡を管轄し、延喜の制で上国に列する。明治維新の後、住吉・百済2郡を東成郡に合わせ、莵原・八部2郡を武庫郡に合わせ、島上・島下2郡を合わせて三島郡とし、豊島・能勢2郡を合わせて豊勢郡とし、新たに大阪・神戸の2市を設けて、大阪府と兵庫県に分けて治めさせた。
国名
倭訓栞
なには 難波と書く。神武紀・仁徳紀に見えるのは摂津である。式部卿藤原宇合の歌に「むかしこそ難波居中といはれけめ 今は京引みやこびにけり」。
玉勝間
摂津 津国を摂津というのは、もともと国の名ではない。難波津を司る官の名である。難波は右京師に準じて、京職と同じく摂津職を置かれた。これは難波に置かれる官であって、津国のことも兼務した。職員令に摂津職帯津国とあることからもわかる。そのむかし、国のことをも摂津国と書かれている。これも摂津職の司る国という意味である。さて、「摂」の字は難波と津国とを「摂(兼ね)」て司るということである。静謐の意味などというものはない。こうして延暦13年、職を停止して国とする、とあって、それからこの官は諸国司と同列となった。しかし、字はもとのままに摂津と書かれたために、後の人はみなこれをもとから国名と思ったようである。さて、文には摂津と書きながら、職であったころも、口で呼ぶ言葉にはただ「津のつかさ」と言ったようである。それ以外の呼び方はない。国となってからはさらにそうである。しかし、俗に「せっつ」と読んだりするのは、言うに及ばぬ間違いである。今の世でも津の国といい、摂津守などをも「つのかみ」と読むのが正しいようだ。むかし、女房の名にも摂津というものがいて、撰集などにも出ている。これもただ「津」と読んだはずだ。続世継に、「津のご」とある。「ご」は「伊勢のご」などというときの「ご」である。
諸国名義考
摂津 和名抄に訓法なし、ただ「津」とのみ読むべきか。名義はすなわち「津」である。津は同抄に「四声字苑にいう、津は水を渡る処なり。唐令にいう、諸渡関津及乗船筏、上下経津者、皆当有過処、和名・ヅ」とある。そして神武天皇御代に奔潮太急にあって、浪速国と言ったのを、後になまって難波というということが国史に見える。その後、仁徳天皇御代に皇都となさって、高津宮と名付ける。さて、高津とは岸が高いからであろう。下河辺長流の続歌林良材集に、この国の風土記を引用して、「天稚彦に属して下れる神、天探女磐船に乗りてここに泊るゆえに、高津となづく」という。
屠龍工随筆
みよし野とは、吉野山の峰をいい、(中略)浪花も、もとなみはやの国と言っていたのであり、同じ津の国といっても江に寄っている今の大坂のあたりを特に言ったものであろう。
建置沿革
- いにしえには浪速国(浪華国)という。
- 神武天皇東征のときここに至り、海の潮が速いのにあったことから、国名とする。
- 応神天皇のとき、はじめて摂津の号あり。万国船舶がここに集まるためである。
- 仁徳天皇元年春正月、難波に都を置いて高津宮におられた。
- 孝徳天皇大化元年十二月、長柄豊崎に遷都。
- 天武天皇六年十月、摂津職を置く。
- 天平十六年二月、難波宮を皇都と定める。
- 天平十七年九月、平城宮に戻る
- 延暦十二年三月、摂津職を廃止し、国司とする。府を西生郡に置く
- 天長二年(825年)三月、江南4郡の東生・西成・百済・住吉を和泉国に編入する。
- 天長二年四月、国司を豊島郡家以南に移る。
- 天長二年閏七月、上記4郡の編入を停止し、摂津国に戻す。
- 承和十一年(834年)十一月、鴻臚館を国府とする。
- 治承年間、平清盛、安徳天皇を奉じて、福原の都に移る。半年以内に旧都に戻る。
- 元暦元年、平氏再び天皇を奉じて福原京に移るが、まもなくして讃岐に逃げる。
- 鎌倉幕府、大内惟義を守護とする。
- 建武中興、楠氏が摂津国の守護を兼ねる。
- 足利尊氏、赤松範資に国境を侵略させ、後に佐々木秀詮を守護とする。
- 応安年間、管領・細川頼之がこれに代わり、ついにその管国となる。家臣の薬師寺氏を守護代とする。以後、六代、政元に至る。
- 政元の子の高国・澄元が争い、池田・伊丹・能勢・有馬の諸族が競い起こって両派に分かれる。
- 永正五年、高国がついに摂津を取り、尼崎城に入る。
- 享禄四年、高国が澄元の子の晴元と天王寺で戦って敗死し、すべて晴元のものとなる。
- 天文の末、三好長慶が高国の義子・氏綱を奉じて国境を侵し、晴元を逐い、ついに摂津を奪う。同族を芥川に置いて守らせる。
- 永禄年間、織田信長がこれを降し、地を分けて伊丹親興・池田勝政・和田惟政に与える。
- 元亀の末、惟政を誅し、勝政を逐い、荒木村重を守護とする。
- 天正七年、村重が謀反し、伊丹城を捨てて滅亡。信長は池田信輝にこの地を賜う。
- 豊臣氏、信輝を転封してこの地を有し、大坂城を築いて入る。
- 元和元年、豊臣氏滅び、徳川氏が大坂城を修復して松平忠明に賜う。
- 元和八年、初めて内藤信政を城代とし、摂津・河内・和泉・播磨の政治・刑罰を行なわせる。後に奉行を兵庫に置く。封を得る者は、尼崎(松平忠喬)、高槻(永井直清)、三田(九鬼久隆)、麻田(青木一重)の四藩。
- 明治維新、大坂を府とし、さらに兵庫県を置く。
郡
- 東生/東成 ヒガシナリ
- 西生/西成 ニシナリ
- 住吉 スミヨシ
- 百済 クダラ
- 豊島 テシマ
- 島上 シマノカミ
- 島下 シマノシモ
- 能勢 ノセ
- 河辺 カハノベ
- 武庫 ムコ
- 莵原 ウバラ
- 八田部/八部 ヤタベ
- 有馬 アリマ
日本の旧国名
- 畿内:山城国-大和国-河内国-和泉国-摂津国
- 東海道:伊賀国-伊勢国-志摩国-尾張国-三河国-遠江国-駿河国-伊豆国-甲斐国-相模国-武蔵国-安房国-上総国-下総国-常陸国
- 東山道:近江国-美濃国-飛騨国-信濃国-上野国-下野国-陸奥国-出羽国
- 北陸道:若狭国-越前国-加賀国-能登国-越中国-越後国-佐渡国
- 山陰道:丹波国-丹後国-但馬国-因幡国-伯耆国-出雲国-石見国-隠岐国
- 山陽道:播磨国-美作国-備前国-備中国-備後国-安芸国-周防国-長門国
- 南海道:紀伊国-淡路国-阿波国-讃岐国-伊予国-土佐国
- 西海道:筑前国-筑後国-豊前国-豊後国-肥前国-肥後国-日向国-大隅国-薩摩国-壱岐国-対馬国
- 蝦夷・琉球・台湾
これらの項目の情報は主に『古事類苑』地部1~2を参考にしている。