畿内
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畿内(きない)。京を中心に方千里の範囲。古くは四畿内(大倭、河内、難波、山背)、後に変遷して五畿内(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国)となった。
名称
書言字考節用集 二 乾坤
畿内 畿は圻と同じ、韵略、天子寰内地、毛詩注、王者居るところの地、方千里これ王畿という。
諸国名義考
畿内
日本書紀孝徳天皇巻に、「およそ畿内、東は名墾・横河より以来、南は紀伊・兄山より以来、西は赤石・櫛淵より以来、北は近江・狭々波合坂山より以来、畿内国となす」とあり、訓法は北山抄に「宇治都久仁(うちつくに)」とある。さて、民部省図帳には、五畿垣内(カキツ)とあり、畿というのは田令におよそ畿内云々、義解にいう「畿なお壃なり。王畿の内をいうなり」と見える。詩商頌玄鳥之篇いわく「邦畿千里惟民所止」、また東陽許氏いわく「王者居る所、地方千里、これ王畿という。天下の中に居る」また文選注「天子千里に居る京畿という」。また刑法志にいう「同十を封となし、封十を畿となす。畿は方千里」などという外国の号を借用したものである。
畿内
〔日本書紀二十五孝徳〕およそ畿内、東は名墾・横河より以来、南は紀伊・兄山より以来、西は赤石・櫛淵より以来、北は近江・狭々波合坂山より以来、畿内国となす
- 〔古事記伝29〕孝徳の巻に畿内の定め見えて(これは後の定めとはその限りいささかことなることがあった。また、これより前、崇神の巻、仁徳の巻、欽明の巻などにも畿内ということは見えているが、それはただ文のみである)持統の巻に四畿内ということ所々に見える(これは後の五畿内と同じ。当時、河内・和泉は一国だったからである)
四畿内
- 〔日本書紀 三十持統〕6年4月庚子、四畿内百姓にて荷丁をなす者、今年調役を除く。
- 〔続日本紀 二文武〕大宝2年12月乙巳、太上天皇(持統)不予、天下大赦、一百人出家を度し、四畿内、金光明経を講ぜしむ。
- 考えるに、四畿内は大倭、河内、難波、山背の四国なり。
五畿内
- 〔続日本紀 八元正〕養老5年3月癸丑、勅していわく(中略)その左右両京および畿内五国、並びに今歳の調を免ずる
- 考えるに、これより先、霊亀2年、初めて和泉監を置く。よって畿内五国の称あり。後、聖武天皇の天平12年、和泉監を河内国に併合して、また四畿内と称す。ことは分割国条につまびらかである。
- 〔続日本紀 二十孝謙〕天平宝字元年4月辛巳、この日、内舎人藤原朝臣薩雄、中衛二十人を遣わし、大炊王を迎え、立てて皇太子となし、勅して曰く、(中略)また東大寺匠丁、造山陵司役夫、および左右京、四畿内、(中略)紀伊等国兵士、(中略)ならびに今年田租を免ず。五月乙卯、勅して曰く、(中略)その能登・安房・和泉等国旧によって分立。
- 考えるに、これより後永く五畿内と称するに至ったものである。
日本の旧国名
- 畿内:山城国-大和国-河内国-和泉国-摂津国
- 東海道:伊賀国-伊勢国-志摩国-尾張国-三河国-遠江国-駿河国-伊豆国-甲斐国-相模国-武蔵国-安房国-上総国-下総国-常陸国
- 東山道:近江国-美濃国-飛騨国-信濃国-上野国-下野国-陸奥国-出羽国
- 北陸道:若狭国-越前国-加賀国-能登国-越中国-越後国-佐渡国
- 山陰道:丹波国-丹後国-但馬国-因幡国-伯耆国-出雲国-石見国-隠岐国
- 山陽道:播磨国-美作国-備前国-備中国-備後国-安芸国-周防国-長門国
- 南海道:紀伊国-淡路国-阿波国-讃岐国-伊予国-土佐国
- 西海道:筑前国-筑後国-豊前国-豊後国-肥前国-肥後国-日向国-大隅国-薩摩国-壱岐国-対馬国
- 蝦夷・琉球・台湾
これらの項目の情報は主に『古事類苑』地部1~2を参考にしている。