七道

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七道(しちどう)は畿内の外(畿外)を七道に分けた行政区分。

経緯

古事記伝 二十三

 さて、畿外をすべて七道と分かち、またその名を定められたのも、いずれの御代ということはつまびらかでない。考えるに、孝徳・天智ごろの御代であろうか。孝徳紀二年に、畿内の境界を定められたことは見えるけれども、そこにも七道のことは見えない。同年の文に東方八道とあるのは、なお上代の言い方であるから、このときいまだすべてを分けて七道とする定まりはなかったことがわかる。しかし、その紀のこの巻(崇神)にも東海・北陸などとあるのは、後にできた名前を記したものであって、当時の名ではない。この記に東方十二道、高志道などあるのが、いにしえの名であったのだ。また、景行紀に、東山道とあるのも同じことである。すべて孝徳紀より前にこのような名前が見えたのは、後のを記したものだ。成務紀に、山陽山陰とあるのは、どこであれ山の南・山の北ということであって、山陽道山陰道をいうのではない。さて、七道ということは、文武紀に初めて見える。

古事記伝 二十九

 さて、天の下の国々の刻みが古書に見えるのは、水垣の宮(崇神)段に「高志(コシ)の道」(後の北陸道なり)、「東方十二道(ヒンガシノカタノトヲマリフタミチ)」(日代宮(景行)段にも見える。東海道である。十二は国の数である)、書紀の同巻に「北陸(クガノミチ)」「東海(ウミツミチ)」(崇峻の巻に北陸道・東海道と見える)、「西道(ニシノミチ)」(山陽道なり)、また四道(ヨツノミチ)(いにしえの北陸・東海・西と丹波とである)、また「東海、東山、山陽、山陰、南海、筑紫」と六道並んでみえ(ここに北陸の入っていないのはいかなることか)、文武紀に七道と見える。


日本の旧国名

これらの項目の情報は主に『古事類苑』地部1~2を参考にしている。