大和国

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大和国(やまとのくに)は、五畿内の一。仁明天皇の承和三年以前にあってはその首班であったが、後、第二班となる。東は伊賀国伊勢国、西は河内国、南は紀伊国、北は山城国に接し、東西およそ10里、南北およそ25里。

この国は、むかし国府を高市郡に置き、添上・添下・平群・広瀬・葛上・葛下・忍海・宇智・吉野・宇陀・城上・城下・山辺・十市・高市の15郡を管轄し、延喜の制では大国に列する。明治維新の後、郡の併合を行ない、添下・平群の二郡を生駒郡とし、城上・城下・十市の三郡を磯城郡とし、忍海・葛上の二郡を南葛城郡とし、葛下・広瀬の二郡を北葛城郡とし、新たに奈良市を設けて一市十郡となし、奈良県に治めさせた。

国名

国号考

夜麻登(ヤマト) 秋津島、師木島をつけて言うこともある

夜麻登というのは、もと畿内にある大和(オホヤマト)一国の名であったものを、神武天皇がこの国に大宮をしかれてから、後の代々の都もみなこの国内であったがゆえに、おのずから天の下の大名にもなったものである。

さて、この名は邇藝速日命(ニギハヤヒのみこと)のあまくだられたときに、虚空見倭国(ソラミツヤマトノクニ)といった古語があって、神代からの名である。また、それより先に八千矛神(ヤチホコのかみ)の御歌に「やまとの一本すすき」とあるが、それはこの国の名を読まれたのではないように思われる。また、書紀の神武巻の最後に、「昔、イザナギのみこと、この国をほめて、日本(ヤマト)は浦安国(ウラヤスグニ)、細戈千足国(クハシボコチタルクニ)、磯輪上秀真国(シワノボルホツマノクニ)とのりたまう」ともある。

そして、神武天皇がこの国に宮をしかれたことから、神日本磐余彦命(カムヤマトイハレヒコのみこと)とお名前をたてまつったのである。しかし、これを逆に、この名前から国の名ともなったのだというのは、大変な間違いだ。(中略)

また、大日本豊秋津洲(オホヤマトトヨアキヅシマ)を生む、とあるのは、天の下の大号にもなっての後の世から言ったことばであって、神代のそのかみの言葉ではない。(中略)

夜麻登は一国の名であるが、天の下の大号にもなり、また一国の内にて、特に京師(ミヤコ)をさしてもいい、広くも狭くも用いられる号である。それは、筑紫というのも伊予というのも一国の名であるのに、九州・四国の大名にして、筑紫洲、伊予之二名洲などという例と同じである。(中略)

夜麻登というのはもともとの大号ではない。一国の名から転じたことは疑いもない。すべてもとは狭い名であったが、後に広くなった例は多い。出羽国加賀国なども、もとは郡の名であったのを取って国の名としたことが国史に見える(中略)

夜麻登という名の意味は、万葉考の一つの考えに「この国は四方みな山門から出入りするから山門国と名を負っているのである」とあり、その理由がつまびらかに記されている。この説がよろしいだろう。

また、私(本居宣長)の考えがある。それは、まず書紀の神武巻に、天皇のお言葉に、この国のことを「塩土老翁の言えるを聞くに、東のほうに美地有り、青山よもにめぐれり」云々とあり、また大己貴命(オオナムヂのみこと)は玉墻内国(タマガキノウツクニ)と名付けられ、また古事記倭建命(ヤマトダケ)の御歌に「やまとは くにのまほろば たたなづく あをがきやま ごもれる やまとし うるはし」と詠まれ、また石比売(イワノヒメ)の御歌に「をだてやまやまと」云々と詠まれている。これ比売命の御歌はかの倭郷をおっしゃったものであるが、「をだてやま」というのは一国の倭による枕詞であって、楯を立て並べたように山がめぐっているのをおっしゃったのである。以上のくだりの古語はみな、この国は山のめぐれる中にあることを言っているので、夜麻が山であることは間違いない。登には三つの考えがある。一つは、登は「処」であって、山処(ヤマト)の意である。(中略)二つには、登は「都富」の縮まったもので、「山都富」である。(中略)三つには、登は宇都(ウツ)の宇を省き、都を通わせて言ったもので、山宇都の国である。(中略)これについて、師(賀茂真淵)の山門の説と、私のこの三つの考えのうち、読者がいいと思ったものをとってほしい。

倭訓栞

やまと 日本大和をよむのは義訓である。山跡の意味というのは古い説である。「と」は多く「処」をいう。もと山辺郡大和(オホヤマト)と式に出た名であって、後に国号となったものであろう。この郷に国魂の神もまします。まさに大和の国の形は、吉野一郡が三分の一にあって、山のみが国に満ちている。神武天皇が東征されてから、代々めでたい皇都であったので、大八洲の内に豊秋津洲も大日本としるし、後は六十余州を合わせての総称となったものである。邪山臺、野馬臺などと書くのは中国の書き方である。

建置沿革

  • 天祖、磐をおしひらき、高市をひらく。
  • 饒速日命の石船が白庭に至る。
  • 神武天皇東征し、橿原に都を定め、珍彦(ウヅヒコ=椎根津彦)を倭国造とする。
  • 崇神天皇、威を畏れ、笠縫に鏡を祀り、豊鍬入姫命を祭主とする。
  • 倭国/大倭国として建国
  • 和銅三年(710年)、平城京(奈良)に遷都。
  • 養老年間、吉野に芳野監を置くが、後に廃して郡とする。
  • 天平九年(737年)十二月、大養徳国と改める
  • 天平十九年(747年)三月、旧に復して大倭国とする
  • 天平勝宝四年(753年)十一月、大和国に改める
  • 延暦三年(784年)、山城国(長岡京)に遷都したため、南都と呼ぶ。国府を高市郡に置く。
  • 延元二年(1337年)、後醍醐天皇が吉野を皇居とする。
  • 元中の末に南北朝講和、将軍足利義満、畠山堂国(義深)を守護とする。
  • 畠山持国に至り、その子の政長・義就の家督争いにより、筒井・越智・十市・清澄・福住らの諸党が州内に分拠し、畠山氏の号令は行なわれず。
  • 永禄の初め、筒井順昭が自ら大和の守護と称し、三好氏に属す。筒井氏ははじめ筒井城におり、後、布施城に移る。すでに松永久秀が諸城を従えて信貴山城に居り(後に多聞城に移る)、筒井氏と地を争って連戦やまず。
  • 元亀三年、二氏ともに織田信長に降る。
  • 天正五年、信長、久秀を誅し、順昭の子の順慶に旧領を復させる。
  • 天正十三年、豊臣秀吉、筒井定次(順慶の嗣子)を伊賀に移し、豊臣秀長を大和・和泉・紀伊に封じ、郡山にて治めさせる。また、井上定利(時利)に南都を治めさせる。
  • 豊臣秀保が夭逝したために増田長盛を郡山に封じる(二十万石)。関ヶ原の合戦後、その封を失う。
  • 慶長七年(1602年)、中坊秀行に府を司らせる。
  • 徳川氏に至り、封を受ける者、郡山(初め水野勝成、後に松平吉里)、高取(植村家政)、小泉(片桐貞隆)、櫛良(長井直圓)、芝村(織田長益)、柳本(織田尚長)、柳生(柳生家矩)の七藩、ならびに奈良奉行を置く。
  • 明治維新後、奈良府を置き、田原本藩(平野長裕)を建て、さらに廃藩置県をおこない、その後、すべて奈良県に合わせる。

  • 添上郡 ソフノカミ
  • 添下郡 ソフノシモ
    神武紀に「曽富(ソフ)県」とある。祈年祭祝詞には「曽布」とある。上下に分かれた時期は不明。
  • 平群郡 ヘグリ
    飽波郡:天武五年紀に見える。廃置未詳。和名抄では、飽波郷が平群郡に属する。
  • 広瀬郡 ヒロセ
  • 葛上郡 カツラギノカミ
  • 葛下郡 カツラギノシモ
    むかしの葛城国。国造記にいう、橿原朝(神武天皇)設置。祈年祭祝詞には「葛木」とする。葛城下郡は天武紀十三年に見え、上下二郡に分かれていたと思われる。その前、神武紀には「高尾張邑に土蜘蛛あり、皇軍葛網を結びてこれを掩殺す。よってその村を改号し、葛城という」とある。
  • 忍海郡 オシノミ
  • 宇智郡 ウチ
  • 吉野郡 ヨシノ
    今来郡:欽明七年紀に見える。万葉集にある今城岳がこの地である。延喜式等には乗っていない。廃置未詳。和名抄では今来郷が吉野に属する。
  • 宇陀郡 ウダ
  • 城上郡 シキノカミ
  • 城下郡 シキノシモ
    むかしの磯城郡。欽明紀には志紀と書く。古事記に師木県主。万葉集の敷野もこの地である。上下二郡に分けたのがいつかわからない。式上・式下とも書く。
  • 高市郡 タケチ
  • 山辺郡 ヤマノベ
  • 十市郡 トホチ

日本の旧国名

これらの項目の情報は主に『古事類苑』地部1~2を参考にしている。